克美しげる、ロカビリー歌手「うそ」破綻による殺人と覚醒剤 - 芸能資料館

克美しげる、ロカビリー歌手「うそ」破綻による殺人と覚醒剤


克美しげる、ロカビリー歌手「うそ」破綻による殺人と覚醒剤

克美しげるがネットで話題になっている。『爆笑!THEフライデー』(TBS)で、歌手Xなる取り上げられられ方をしたが、それはすぐに克美しげるであることが明らかになった。そのため、克美しげるをそれまで知らなかった年齢層の視聴者にも、その存在と所業が明らかになってしまったわけだ。



克美しげるは、1960年代前半に一世を風靡したロカビリー歌手として活躍。『紅白』にも出場したほどだが、愛人が公私共に邪魔になり絞殺。

しかし、その後は仲間の芸能人の嘆願運動があり、早めに出所するも、今度は覚醒剤でまたしても塀の向こうに転落してしまう。

その間、4回も結婚しており、賠償金も1000万あったがすべて返済した、という話が『爆笑!THEフライデー』で取り上げられたのだ。

克美しげる自身は3年前に亡くなっているが、ここで、改めて克美しげるについてだとってみたい。

克美しげるは1937年12月25日、宮崎市に生まれた。

高校卒業後、稼業を手伝いながらバンドを結成。その頃、高校時代から交際していた女性と最初の結婚をするもののすぐに離婚。バンドボーイを志して大阪に出る。そこで、ロカビリー歌手としてスカウトされ、注目されるようになった。

そして、1962年にには『世に咲く花』という曲で東芝レコードからレコードデビュー。

同年8月にリリースした『霧の中のジョー』で頭角を現し、1963年にはアニメ主題歌の『8マン』で子どもたちにも名を知られるようになった。

1964年には『さすらい』が50万枚突破して、1964年、65年には紅白歌合戦に連続出場した。

この時点で、克美しげるは大阪時代に1年間付き合っていた女性と再会。長女をもうけ1972年に再婚している。

しかし、1970年代に入りロカビリーブームの衰退とともに、克美しげるも旬が過ぎ“過去の人”になりつつあった。

そんな克美しげるは1972年2月、青山のサパークラブで、経営者に同棲相手の女性を紹介された。

この女性こそが、克美しげるに殺された女性・岡田裕子さんである。

妻と愛人と事務所社長に対して「うそ」の収拾がつかなくなり……


この時点では、克美しげるだけでなく、岡田裕子さんにも相手がいたわけだ。

しかし、2人は急接近。岡田裕子さんは経営者と別れた。

経営者の気持ちはいかばかりか。

克美しげるに「寝取られた」のか、それとも、そろそろ別れたかったから克美しげるに紹介したのか、それは定かではない。

そけはともかく、克美しげるの方は、優柔不断、というよりおそらく別れる気はなく、妻との関係をそのままにして彼女と交際した。

克美しげるは妻子がありながら、岡田裕子さんと月〜金曜日まで、マンションで過ごす半同棲生活を送っていた。

岡田裕子さんは、克美しげるを愛した者として当然だが、自分のマンションに入り浸る克美しげるに尽くした。

克美しげるの借金などを返済するために、より嫁げるソープランドで働くようになった。

一方、克美しげるは妻とは別れず、彼女の嫁いだお金を、ギャンブルにつぎ込むようになっていた。

それだけではない。

1975年8月、岡田裕子さんは、結婚するつもりで克美しげるを故郷の岡山に連れて帰り、両親に会わせているのだが、克美しげるは、妻とはわかれていないし、また別れる気もないくせに、両親に対してこう挨拶した。

「やっと本妻の籍が抜けました。本当にご心配かけました。これからは彼女を幸せにするつもりです」

しかも、翌9月には上野で結納式まで挙げ、写真まで撮っているのだ。

この克美しげるの度し難い「うそ」は、克美しげる自身収拾がつかなくなり、結局岡田裕子さんを絞殺することになってしまう。

事務所とレコード会社が、克美しげるがまた芸能界の第一線で活躍できるよう、再起の曲を用意していた。

1976年5月5日にリリースされた『思いやり』のキャンペーンを北海道で行うことが決まったが、彼女がその同行を執拗に迫ったことで殺害したといわれている。

「執拗に迫った」のは、克美しげるが身勝手に態度を変えたからだろう。

1976年5月6日未明、ソープ嬢にまでなって借金返済に尽くしてくれた当時35歳の愛人を絞殺した。

むつみ合った後にベッドで寝入った被害者の首を手で締め、さらにタオルを巻き付けるという弁解の余地のない手口である。

さらに女性のマンションから、ダイヤや真珠の指輪、ライターなどを持ち去り質入れする。

死体はスコップと一緒に、知人に借りたトヨタセリカのトランクに入れて捨て場所を探すが見つからず、克美しげる自身が無免許(事故を起こして失効)で羽田空港の駐車場まで運転。車を置きっぱなしでそのまま付き人と落ち合い、札幌行の飛行機に乗った。

しかし、車のトランクから血(体液ともいわれている)がこぼれ落ちていたことが見つかる。所有者の割り出しから克美しげるが使っていたことが判明。翌々日の8日に新曲キャンペーン中の旭川で逮捕された。

克美しげるは彼女を連れて行くことができないわけではなかったが、事務所の社長に彼女の存在を知られたくなかったそうである。

克美しげるは、彼女とだけではなく、事務所の社長に対しても「うそ」を積み重ねたのである。
克美しげるは、視聴者からは腰が低いタレントとみられていた。

しかし、克美しげるの殺意は決して発作的なものではなかった。彼女のマンションに向かう途中、スコップやロープ、粘着テープなどを買っている。「うそ」の身勝手な清算に過ぎなかったのだ

にもかかわらず、殺して盗んで無免許で遺棄した克美しげるに対し、検察側は懲役15年を求刑したが、東京地裁は温情判決ともいえる“たった”懲役10年を言い渡した。

これが間違いだった。

ヒモ同然だった克美しげるに、推定3500万円は搾り取られたという被害者の両親は、その「温情」に我慢できず同年10月には克美しげるを民事で提訴。翌年9月には500万円の損害賠償支払いが命じられた。

改俊の情で「減刑」になりた克美しげるだが法廷には現れず、両親がそれに怒って控訴した東京高裁にも姿を見せなかった。(山崎哲『(物語)日本近代殺人史』春秋社)

腰が低い克美しげるは、大阪刑務所に収監されると模範囚として過ごした。

同業の芸能人たちが、減刑嘆願運動まで行ったこともあり、1983年10月28日には刑期3年を残して仮出所してしまった。

克美しげるは埼玉に戻り、スナックで歌い始めた。

大宮でカラオケ教室を開くが、かつてのロカビリー歌手を応援するオバ様方が予想以上に多いことで、仮出所中であるにもかかわらず舞い上がってしまった。

何と、その中からもっとも若い、子どももある女性と周囲の反対を無視して3度目の結婚。

「あんな事件を起こして、しかも仮出所中、そんな身分じゃないだろう」と言われるようになり、後援者も遠ざかっていった。

しかし、克美しげるの生活はかつてのスター時代に戻るかのように徐々に派手になっていった。

当時、30人程度の生徒数だったカラオケ教室の月謝が5000円。

それでいながら教室と自宅のマンションの家賃が36万5000円。中古ながらオフホワイトのベンツを購入し、再婚した妻は餌代だけで月3万円はかかるハスキー犬も飼っていた。

さらに、教室を「後援」する暴力団関係者への“みかじめ料”もあったといわれている。

どうみても合わない帳尻を合わせたのは、近くのスナックで行われるディナーショーのギャラ(ワンステージ10〜15万円)とおひねりだったという。

当時の報道によれば、大宮に五木ひろLが来ると、安い席で3500円だが、克美しげるが同じ会場でショーをやると8000円は取ったという。

また、克美しげるは刑務所での苦労話を披露して泣かせる話術に長け、同情した高齢の聴衆が割箸に札をはさんだ“おひねり”を次々克美しげるに渡していたという。

何のことはない。改懐の情どころか、償いの切り売りである。しかし、そうした甘えや泣き落としは、いずれ精神的にも経済的にも破綻する。それが覚醒剤事件につながっていったと見ることができるわけだ。

党せい剤取締法違反の克美しける被告に
懲役10年ー浦和地裁

 自宅で覚せい剤を使用したとして、覚せい剤取締法違反に問われた埼玉県大宮市××町××××、××マンション五〇三、元歌手・音楽教室経営、克美しげる被告(51)=本名・津村誠也=に対する判決公判が五日午後、浦和地裁熊谷支部で開かれ、鹿山春男裁判官は懲役十月(求刑懲役一年)の実刑判決を言い渡した。
 判決によると、克美被告は六十二年貢ごろと今年二月の二回にわたり顔見知りの暴力団関係者から覚せい剤の粉末数gを各三万円で購入、今年五月中旬、自宅で覚せい剤水溶液〇・〇二五gを左腕に注射したほか、覚せい剤約一・七九五g(末端価格約三十数万円相当)を自分の経営する大宮市内の音楽事務所内に隠していた。
 同被告は、昭和五十一年五月、愛人のホステスを殺害して殺人罪などで懲役十年の実刑判決を受けて服役、五十八年十月に仮出所、大宮市内でカラオケ教室などを開き、社会復帰を図っていたが、「体が疲れる」などを口実に覚せい剤を使用した。(『毎日新聞』1989年7月6日付)

「温情判決」や「減刑運動」がアダになったのである。

1989年5月11日、埼玉県警保安課と熊谷署は、克美しげるが主宰していた音楽教室に置いてあったセカンドバッグから、覚醒剤約221グラムと注射器一本を押収。覚醒剤取締法違反で現行犯逮捕した。

同署で調べたところ、所持量は約70回分。克美しげるの右腕には、覚醒剤を乱用していたとみられる注射痕のような跡があったという。

その前年の11月、教室に出入りしていた無職男性が覚醒剤不法所持、使用の疑いで逮捕されており、その供述から克美しげるの内偵を進めていた。

6月28日に開かれた浦和地裁(鹿山春男裁判長)で克美しげるは起訴事実を全面的に認め、検察側は懲役1年を求刑。翌7月5日に懲役10ヵ月の実刑判決が言い渡された。(『朝日新聞』1989年6月29日付)

もっとも、この時も模範囚で、翌年11月に早めに出所したが、3度目の妻とも結局は離婚してしまった。

克美しげると同郷(宮崎)の劇作家、山崎哲は、克美しげるをこう評している。

「決断を迫られたとき、その決断をいつも先送りすることで切り抜けようとする人間がいる。決断する勇気や能力をもたないからだが、克美もそのひとりだった。『うそ』をつくことでで決断を先送りしてきた。そしてついに殺害せざるをえないところへ追いつめられていったのである」(『朝日新聞』1989年5月12日付)

勝手にしやがれ―克美茂トルコ嬢殺人事件 (1983年)

勝手にしやがれ―克美茂トルコ嬢殺人事件 (1983年)



  • 作者: 山崎 哲

  • 出版社/メーカー: 白水社

  • 発売日: 1983/08

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