長門裕之と南田洋子の番組は「許されざるもの」か?

長門裕之と南田洋子の番組は「許されざるもの」か?
長門裕之と南田洋子の番組は「許されざるもの」か?先日、長門裕之と南田洋子を取り上げた番組の批判を批判したが、ある方から「お叱り」のメールをいただいた。改めて当方の意見を明確にするために、そーの趣旨をご紹介した上で、長門裕之と南田洋子の番組について考えてみよう。

その前に、前回の長門裕之と南田洋子を取り上げた番組の批判を批判した記事にリンクする。

長門裕之が南田洋子の認知症を公開したが……

まだご覧になっていない方は、そこからご覧いただきたい。

で、どのような「お叱り」が来たのか。

曰く、「あれは認知症や老老介護の現実を描いていない。現実はあんなものではない。そういうのを批判するのが懐疑派の立場ではないのか。何も知らないくせに長門裕之をかばうな」

ここがまず違う。

あれは、長門裕之や番組を美化する意図で書いたわけではなく、批判が的外れだということを述べただけだ。

たしかに、そのようなクレームが局にあったとも聞く。

介護の関係者や当事者の労苦や見識は尊重する。

番組に対する、その指摘自体は間違いと思わない。

ただ、そういう指摘が、だからどうした、という思いもある。

あの番組は、「クローズアップ現代」ではない。

つまり、医療や福祉の課題を真正面から語る報道番組ではない。

では、どういう番組か。

元スター夫婦の老いさらばえた姿を興味本位でのぞく番組である。

老老介護だの認知症などが本質ではない。

それが本質なら、少なくとも、収入や家族構成が平均かそれ以下の庶民でなければだめだろう。

長門裕之は今も現役の人気稼業で、沢村貞子の遺産も入っているという特殊な立場を取り上げた時点で、一般人の介護ぶりとズレた場面が出てくるのは初めからわかっていたことだろう。

そんな番組で、そうした問題全体を描けというのは、現実味のない無茶な話だ。

あの番組に苦情を言った人々は、いったい何を期待していたのだろう。

では、あの番組は福祉の問題も、医療の問題も明らかに出来ない無意味な番組だったのかといえば、もちろん、そんなことはない。

有名人老夫婦の生き方を興味本位でのぞき、その先にいろいろなこと(福祉や医療の問題)を推理できるかどうかは視聴者の水準による。

しかし、別に推理できなくたって、

「ああ、昔はスターだった人もああなるのか。これは他人事ではないなあ」と将来の自分を考えるよすがとなるならそれでいいではないか。

それだけでも十分意義はある。

テレビってそんなものだろう。

苦情を言った人々というのは、青春学園ドラマも、「教育問題」の視点から注文をつける的外れな人たちなのだろう

要するに、テレビは完璧で、テレビ番組はその問題の全体にいつもまんべんなく光を当ててくれる。

また、そうでなければならないと思いこんでいる人たちなのである。

しかし、その人たちに一言しておきたい。

マスコミ信仰は、マスコミに騙されるだけだ。

そもそもテレビカメラは、多様で多面的な現実の一断面しかうつさない。

しかも、制作側の意図で編集もされる。

すでに、これだけでも全体にまんべんなく光なんかあたりゃしないことはわかるだろう。

昔、「ジェネジャン」という日テレの番組が血液型と性格をテーマにするというので、筆者に出演依頼が来たことがある。

しかし、企画書を読んでみると「60%賛成(反対)でも100%賛成(反対)と言ってくれ」と書いてあったので、大槻義彦じゃあるまいし、そんな狂言回しはできないと土壇場で出演をキャンセルしたことがある。

だからいって、その番組はオカルト番組とか俗悪番組といったレッテルを貼るつもりはない。

しょせん、バラエティ番組で表現できるのはその程度。

「ジェネジャン」に完璧を求めるのはおかしいと思うからだ。

話を戻すと、長門裕之、南田洋子夫妻の番組が、医療や福祉問題について重大なミスリードを招くという懸念から批判することを否定しているわけではない。

ただ、筆者はそれについてもそこまで深刻な誤謬があったとは思えないということだ。

そういう批判をするなら、もっとほかの番組にもそんなことは山ほどある。

長門裕之の番組だけを責めても問題解決にはならない。

要するに、メディアはほんの一場面、ワンフレーズしか伝えられないものなのだ、ということを認識すべきなのである。

大事なのはそのことだろう。

待ってくれ、洋子

待ってくれ、洋子

  • 作者: 長門 裕之
  • 出版社/メーカー: 主婦と生活社
  • 発売日: 2009/04
  • メディア: 単行本

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