田代まさしについて書く。『スポーツ報知』(2009年3月3日配信)を開いてみると、ラッツ&スターのボーカルをつとめた歌手の鈴木雅之が、3日に行われた東京・渋谷のセルリアンタワー能楽堂におけるアルバム「Still Gold」の発売記念イベントで、元メンバーの田代まさしの復帰を手助けすることを約束した記事が出ている。
このことに限らず、芸能人の犯罪には、とくに業界では必ずかばう人間が出てくる。
古くは、克美しげるの殺人事件について、減刑嘆願を行った芸能人もいた。
その人たちは善意だったかもしれないが、結局克美しげるは、出所後も別の犯罪を犯している。
罵声を浴びせろとは言わないが、お仲間だからこその厳しさも必要、という教訓である。
田代まさしは、この時点で3回逮捕され、1回懲役を経験している。
『スポーツ報知』(3月3日配信)の報道では、鈴木雅之は、決して無条件に田代まさしを庇い立てなかった。
ただ、パブリックに支援を述べるのは早かったのかもしれない。
鈴木は最近、久々に再会したことを明かし「マイナスからのスタートになるが、どう自分の人生を前へ歩んでいけるか。幼なじみとして出来る限りのことはしてあげたい」。また今後の共演について「彼がより自分を磨いてきたら」と話した。この日はひな祭りにちなんで和をイメージした場所に和服姿のファン33人を招待し、金色のスーツとマイクで新曲を披露。「子供のころ、家のひな人形に全部ひげを描いてお姉ちゃん(鈴木聖美)が号泣。それでファンキーソウルになったのかも」と鈴木家秘話も公開した。(「スポーツ報知」3月3日配信)
ラッツ&スターは、大田区蒲田の「幼なじみ」たちを中心に集まって作られたグループだ。
「幼なじみ」というなら、実は筆者もその一人になる。
サイドギターを担当していた須川泰男と小学校の同級生だったからだ。
須川泰男は実家が寺院だが次男坊である。
だから、てっきり長男が後を継ぎ、彼は音楽の道に進むのかと思ったが、あの事件後、仏門に入りグループを脱退してしまった。
本人が反省したのか、親とそういう約束があったのかはわからない。
だから、筆者はこのグループが話題になると、自分の小学校時代を思い出す。
須川泰男も筆者も、素行が悪いとされるグループに属し(笑)、担任から睨まれていたが、結局筆者はいろいろなトラブルが積み重なり、詰め腹を切らされ他校に転校してしまった。
たばこを吸って高校中退なんて甘いぞ! 何しろ筆者は義務教育を放校になったのだ。
それはともかく、問題は田代まさしが鈴木雅之の期待に応えてカムバックできるかどうかだ。
「ミニにタコ」を非難しなかった仲間の芸能人たち
田代まさしが高校卒業後、ガソリンスタンド店員やトラック運転手などを経て、高校の同級生、鈴木雅之らとシャネルズがデビューしたのが80年である。
「ランナウェイ」の大ヒットで一躍有名になり、第二弾の「トゥナイト」も順調に売り上げを伸ばしていた。
その矢先に、最初のトラブルを経験する。
当時、TBS系で放映されていた人気歌番組の「ザ・ベストテン」では、1位として登場するはずの彼らを迎えられない司会の久米宏が、苦悩に満ちた表情で「都合により当分の間謹慎する」ことを告げた。
メンバーのうち5人が、地方公演の興行主から未成年の女性を接待された事件である。
田代まさしも鈴木雅之も「5人」には入っていなかったといわれているが、いずれにしてもグループとしての謹慎は免れなかった。
復活に当たって出版した「Rats&Star」という本を上梓。
タイトルには、人気者もたった一瞬にしてねずみのように落ちぶれてしまう、という自戒の意味が込められていた。
それがそのまま、彼らの新しいグループ名になる。
しかし、犯罪に甘い芸能界で、彼らはそんな自戒を忘れてしまえるほど、簡単に復活できた。
それが、後に田代まさしを勘違いさせることになったのだろう。
80年代後半からはグループの活動からピンの活動が中心になり、田代まさしはバラエティー番組に出演しながら、一方で家族もブラウン管に乗せて「よきパパ」であることもさりげなくPRする。
これといった芸があるわけでもないが隙間芸人として重宝がられ、大田区には豪邸も建てた。
慢心もあったのはずだ。
2000年9月、東急東横線都立大学駅構内で、若い女性のスカートの中をビデオカメラで盗み撮りしたとして、田代まさしは警視庁碑文谷署の事情聴取を受ける。
都迷惑防止条例違反の疑いである。
罰金5万円の略式命令が下った。そのときの田代自身の言い訳もずいぶんとふざけたものだった。
「“耳にタコができる”という言葉をもじって、“ミニにタコ”というダジャレ映像を作ろうとした」
田代まさしと付き合いのあった一部有力芸能人も、「圧力」と評されるほど田代まさしを庇った。
調子に乗った田代まさしは、早稲田大の講演に呼ばれた際、「メディアや新聞がいかにウソを書くかを伝えたい」とマスコミ批判し、9ヶ月の謹慎中のパチンコ姿が写真誌に掲載されたことについても、「私は盗撮されてもOKなわけ?」などと息巻いた。
こういう無反省な男は、たいがいまた罪を犯すものである。
2度目は「覗き」だった。
2001年12月9日夜、大田区・北千束の自宅近くにある駐車場のフェンス(高さ約1メートル20)の上から手を伸ばし、隣接するアパートの窓を開けて浴室内をノゾキをやらかした。
案に相違して入浴していたのは30代の男性会社員。
300メートル追いかけられて取り押さえられてしまった。
通報者によれば、田代まさしは「“抵抗しないから(手を)離してください”と叫んでいた」という。
田代まさしは調べに対して「のぞいていない」と容疑を否認したが、ビデオカメラを隠し持ち、黒ジャンパーにニット帽を目深にかぶった上にメガネで人相を隠していた。
しかも、現場周辺では夜中にうろつく不審な男が何度も目撃されていたという。
この件で田代まさしの自宅を家宅捜索していた警視庁田園調布署は、部屋から0.9グラムの覚せい剤を発見、押収していた。
これで、田代まさしとは21年の付き合いになる所属事務所、エム・ティ・エムプロダクションも解雇を発表。
公判で田代まさしは、「芸能界の仕事はせず、トラック運転手のような仕事をして一社会人に戻って罪を償いたい」と謝罪したが、3ヶ月後、ビデオ映画の演出で復帰。それも自ら売り込んでのものだった。批判的な報道陣を前に、田代はこう開き直った。
「ぼくだって生活がありますから」
その生活は「トラック運転手」を予定していたのではなかったのか。
芸能界が、復帰した者勝ちで迎え入れてくれる甘い世界であり、場合によっては逮捕歴をネタにすらできる、と踏んでいるのではないのか。
執行猶予中の2004年6月には青梅街道で人身事故を起こし、9月には再び覚せい醒剤所持とバタフライナイフを所持していた銃刀法違反の現行犯で逮捕された。
今はもう、志村けんも和田アキ子もかばってくれやしないだろう。
かつての克美しげるもそうだったが、仕事仲間の減刑嘆願や擁護などされた者は、必ず「次」があるものだ。
陰で支えてやるのは自由だが、表だって「復帰を支援」など宣言してもろくなことはない。
その後の、田代まさしの再逮捕や懲役がそれを示しているのではないだろうか。
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