東宝クレージー映画シリーズというのが、かつての東宝映画の屋台骨を支えた人気シリーズだった。徐々に映画が斜陽化した1960年代、東宝は、社長シリーズ(33作)、喜劇駅前シリーズ(24作)、若大将シリーズ(17作)とともに、植木等主演、もしくはクレージーキャッツが全員出演する作品群を合計30作制作した。それらを東宝クレージー映画シリーズというが、今日はそれらについて振り返ってみたい。
2013年~2014年にかけて、講談社では、『東宝 昭和の爆笑喜劇DVDマガジン』という分冊百科を月に2度、合計50冊発売した。
映画本編と小松政夫の解説等が収録されたDVDがつき、読み物はその作品関連のエピソードなどが10ページ程度書かれたものである。
映画DVDを書籍コードで販売するというのは、最近各社で始めた手法である。
『東宝 昭和の爆笑喜劇DVDマガジン』というタイトルの通り、社長シリーズ、喜劇駅前シリーズなどのほか、藤田まことと白木みのるの「てなもんや」シリーズや、コント55号の主演映画なども収録されたが、過半数の26作は、いわゆるクレージー映画であった。
クレージー映画は合計30作。そのうち、渡辺プロが制作して東宝からDVD化されていない4作を除いたものすべてが収録された。
その意味では、『東宝 昭和の爆笑喜劇DVDマガジン』とはいうが、実際には、クレージー映画が主役と言っていいだろう。
さて、クレージー映画は、まず植木等主演の『ニッポン無責任時代』(1962年)に始まる。
まだ、このときは、植木等が未知数だったために、それ以前の東宝の人気シリーズだった「お姐ちゃんシリーズ」の主演である重山規子、団令子、中島そのみも同作に出演させた。
結果、映画は大ヒット。続いて『ニッポン無責任野郎』(1962年)も制作された。
ただ、社長シリーズのような、健全なサラリーマン映画を作ってきた東宝としては、「無責任男」というモチーフには異論もあったようで、第3作目からは「無責任男シリーズ」にかわって、「日本一シリーズ」となった。
タイトルが、『日本一の○○』となったのだ
植木等の基本的なキャラクターはそのままにして、その表現方法だけを少し修正。社会のモラルなぞ糞食らえではなく、高度経済成長を象徴するような植木等的モーレツ社員として、立身出世を果たすストーリーとした。
そして、植木等シリーズが軌道に乗ると、今度は、クレージーキャッツの名をタイトルに冠した、すなわちクレージーキャッツ全員が出演する「クレージー作戦シリーズ」も開始された。
「クレージー作戦シリーズ」は、たとえば、『クレージー作戦 先手必勝』(1963年、東宝)『クレージー作戦 くたばれ!無責任』(1963年、東宝)『香港クレージー作戦』(1963年、東宝)など、当初はクレージーキャッツ全員がひとつの会社で活動する、グループ全体が主役だったが、次第に、その中の一部のメンバーが主役になる作り方となり、その一部とは、植木等、ハナ肇、谷啓だった。
中には、『クレージーだよ奇想天外』(1966年、東宝)のように、谷啓が単独で主役をつとめるものもあったが、当時、松竹映画で山田洋次と主演作を何本も撮っていたハナ肇が主役になることはなかった。
一方、ハナ肇が主役の松竹映画に植木等が出演することもあったが、出演者のクレジットには表記されなかった。
東宝、松竹間で棲み分けを行っていたことが伺える。
冒頭に書いたように、クレージー映画は、1960年代の東宝の屋台骨を支えるシリーズだったが、そのハイライトは、『クレージー黄金作戦』(1967年)あたりではないだろうか。
何しろ、たんに海外ロケ(ハワイとアメリカ本土)を敢行しただけでなく、ラスベガスの大通りを5分間ストップさせ、クレージーキャッツの7人が踊るシーンを撮影したのだから。
しかし、ハイライトがあるということは、必ず斜陽の時がある。
当時のメキシコオリンピックに合わせて、アメリカに加えてメキシコロケも敢行した『クレージーメキシコ大作戦』(1968年)は、マニアの間では、クレージー映画凋落のきっかけとなった作品とされている。
同じ海外ロケ敢行作の『クレージー黄金作戦』(1967年)に比べて、興行収入、収益とも40%近くダウンしたからだ。
この当時、年間3作、多い時は4作も作られたクレージー映画。ストーリーはかなり非現実的な展開もあり、このへんになるとさすがに疲れてきたかな、という気がする。
その後は徐々に興行収入が下落し、30作中、最後の4作は、渡辺プロの制作となっている。
これはおそらく、渡辺プロがお金を出して、区切りの30作までは、という感じで作ったのではないだろうか。
『日本一のショック男』(1971年=72年正月映画、渡辺プロダクション/東宝)をもって、クレージー映画シリーズは終了した。
すでに終盤は、植木等の単独主演ではなく、ザ・ドリフターズの加藤茶との2枚看板で作っていた。
すでに、ザ・ドリフターズがそれだけ売れてきたことと、植木等から加藤茶へのバトンタッチという意味も含まれていたのだろう。
高度経済成長時代の10年間が過ぎて我が国の文化も価値観もかわり、「無責任男」や「日本一男」に説得力が失われつつあったことや、植木等自身も歳をとり、20代の設定だった当初のキャラのまま、40過ぎても同じ役を続けることが困難になっていたことが、シリーズの終焉につながったのだう。
また、凋落の始まりと言われた『クレージーメキシコ大作戦』あたりから、子どもから金を盗んだり、詐欺師の役だったりと、当初の設定「無責任」とは似て非なる「無頼漢」になってしまったこともあるだろうし、映画が衰退し、テレビでより下世話な方向に活路を見出したザ・ドリフターズが台頭したことも大きい。
何より、植木等を含めたクレージーキャッツは、手段を選ばずスターの座にしがみつく、ガメつさがなかったので、引き際もあっさりしていたのだろう。
しかし、そうした、大人のグループに対する再評価はこんにちなお活発に行われており、2015年になってからも、日本映画専門チャンネルと、時代劇専門チャンネルの合同企画として、植木等が主演した東宝クレージー映画シリーズが放送された。