ロイヤル演説【戦後史の激動】日本は反共の防壁
ロイヤル演説、ご存知ですか。アメリカ合衆国の軍人、政治家であるケネス・クレイボーン・ロイヤル(kenneth Claiborne Royall、1894年7月24日~1971年5月25日)米陸軍長官は1948年1月6日、自らの演説の中で、日本を反共の防壁にすると演説しました。

アメリカは日本に駐留中、農地改革、学制改革、財閥解体等さまざまな民主的改革を行いました。
それは別の見方をすると、2度と日本がアメリカに歯向かわないようにという日本の弱体化をはかるものでした。
一方、わが国の戦後のスタートにふさわしい画期的な側面もみることができました。
ところが、中華人民共和国の樹立、米ソ共同委員会の朝鮮統治における決裂等、東アジアにおける反ファシズム連合の枠組みが崩壊していき、米政府はこの新しい事態に対応すべく、東アジアのあり方を検討する必要性に迫られたのです。
そこで、ケネス・クレイボーン・ロイヤル米陸軍長官は、日本の過度の弱体化を指向するGHQの占領政策を批判。
「アメリカは日本に、十分に自立し得る程度に、強力にして安定せると同時に、今後東亜に生ずるかもしれぬ新たな全体主義的戦争の脅威に対する、妨害物の役目を果たし得る自足的(SelfーSufficient )民主主義を確立する目的を有している」と演説で語ります。
アメリカは日本の経済復興を優先すべきであると訴え、「日本を極東における全体主義(共産主義)に対する防壁にする」と演説を行ないました。
要するに日本を、「反共の防壁・極東の軍事工場」と位置づけたということです。
この演説は、アメリカにとっての占領政策の転換(逆コース)を公にしたものとして、よく知られています。
第二次世界大戦後に始まった米ソの冷戦。
国際政治の端緒は、反共思想に端を発した東西の軍事ブロックにありますが、日本がいわゆる「西側の一員」となるきっかけとなったのがこの演説といわれているのです。
激動の戦後史上、非常に重要な演説といえるでしょう。
それまでにもチャータルのフルトン演説、アチソン演説等同様の趣旨の演説は歴史的にもあるが、直接アメリカの陸軍長官が語ったところにこの演説の大きな意味があります。
日米軍事同盟、「抑止力」という口実で普天間の問題がこじれていますが、そのおおもとの原因がこのへんにあります。
さあ、これから我が国はどうなっていったのか。激動の戦後史を見ていくことにしましょう。

もういちど読む山川日本戦後史
アメリカは日本に駐留中、農地改革、学制改革、財閥解体等さまざまな民主的改革を行いました。
それは別の見方をすると、2度と日本がアメリカに歯向かわないようにという日本の弱体化をはかるものでした。
一方、わが国の戦後のスタートにふさわしい画期的な側面もみることができました。
ところが、中華人民共和国の樹立、米ソ共同委員会の朝鮮統治における決裂等、東アジアにおける反ファシズム連合の枠組みが崩壊していき、米政府はこの新しい事態に対応すべく、東アジアのあり方を検討する必要性に迫られたのです。
そこで、ケネス・クレイボーン・ロイヤル米陸軍長官は、日本の過度の弱体化を指向するGHQの占領政策を批判。
「アメリカは日本に、十分に自立し得る程度に、強力にして安定せると同時に、今後東亜に生ずるかもしれぬ新たな全体主義的戦争の脅威に対する、妨害物の役目を果たし得る自足的(SelfーSufficient )民主主義を確立する目的を有している」と演説で語ります。
アメリカは日本の経済復興を優先すべきであると訴え、「日本を極東における全体主義(共産主義)に対する防壁にする」と演説を行ないました。
要するに日本を、「反共の防壁・極東の軍事工場」と位置づけたということです。
この演説は、アメリカにとっての占領政策の転換(逆コース)を公にしたものとして、よく知られています。
第二次世界大戦後に始まった米ソの冷戦。
国際政治の端緒は、反共思想に端を発した東西の軍事ブロックにありますが、日本がいわゆる「西側の一員」となるきっかけとなったのがこの演説といわれているのです。
激動の戦後史上、非常に重要な演説といえるでしょう。
日米軍事同盟の始まり
それまでにもチャータルのフルトン演説、アチソン演説等同様の趣旨の演説は歴史的にもあるが、直接アメリカの陸軍長官が語ったところにこの演説の大きな意味があります。
日米軍事同盟、「抑止力」という口実で普天間の問題がこじれていますが、そのおおもとの原因がこのへんにあります。
さあ、これから我が国はどうなっていったのか。激動の戦後史を見ていくことにしましょう。

もういちど読む山川日本戦後史