世にも奇妙な人体実験の話、常識と無謀のせめぎあい
戦後史というより、もっと長い歴史の話です。
『世にも奇妙な人体実験の話』(トレヴァー・ノートン著/赤根洋子訳、文藝春秋)という書籍を読みました。タイトル通り、人体実験の話です。
かつては刑務所の収監者や孤児を実験台に使った、という話も出てきますが、『世にも奇妙な人体実験の話』は、研究者が新たな発見のために自分を実験台に使ったという無謀な話を集めています。
具体的な内容は、振り返っている「あとがき」から引用します。
著者は、「使命感よりもさらに深いところで彼らを自己実験に向かわせたものは、純粋な探求心(好奇心)だったのではないだろうか」と推理しています。
「使命感」といえば「ひとさまのため」ですが、「探求心(好奇心)」は自分のため。どちらが究極まで頑張れるかといえば、後者ということかもしれません。
科学の歴史は、わからないことをありきたりの実験から順当な仮説をたて、まっすぐな上り坂を登るように発展したわけではなく、極論や暴走、ハプニングなどで新たな真実にたどり着くことが少なくありません。
真実は極論からうまれるといいます。ジャック・モノーではありませんが、出来事は必然と偶然で起こるものです。
『世にも奇妙な人体実験の話』は、私たち人類が獲得している現在の真実には、「無謀」な人体実験で得られた「偶然」があるという話を教えてくれているのです。
では、著者は、どうしてそんな無謀話を書きたかったのでしょうか。
彼らの無謀ぶりを笑いたかったのでしょうか。それとも、命がけの仕事をしたのに英雄視されていない彼らの労に報いるべく、現在の研究者たちに対して、「毒の研究者は彼らを見習って自ら毒を飲め」といいたかったのでしょうか。
私は、そのどちらでもないと思います。
どんな仕事にも、「常識」と「非常識(もしくは違法)」の間でのギリギリの選択というのはあると思います。そのぎりぎりの緊迫した選択こそ、より高次な結論が得られる契機になっている、ということを言いたかったのではないでしょうか。
そのためには、実際に毒を飲むかどうかは別として、毒を飲む「マッド」な価値観をつねに「常識」と対比させる緊張感を自分の中に持てということではないかと思います。
たとえば、昨今の科学者(医学者)の、生命を管理できる研究には、「未知の発見」と「倫理」のせめぎあいがあります。そのせめぎあいを行うセンスが大切なのです。
倫理感の欠片もない科学者(医学者)は御免こうむりたいですが、逆に倫理ばかり気にしている者は科学(医学)を先に進めることに貢献できません。
倫理という壁と向き合いながらも、その突破口となる前向きな結論をひねり出すことに意義がある、ということだと思います。
なかなかむずかしいですけどね。
『世にも奇妙な人体実験の話』(トレヴァー・ノートン著/赤根洋子訳、文藝春秋)という書籍を読みました。タイトル通り、人体実験の話です。
かつては刑務所の収監者や孤児を実験台に使った、という話も出てきますが、『世にも奇妙な人体実験の話』は、研究者が新たな発見のために自分を実験台に使ったという無謀な話を集めています。
具体的な内容は、振り返っている「あとがき」から引用します。
十八世紀イギリスの外科医ジョンハンターは、「淋病が進行すると梅毒に移行する」という自説を証明したいと思った。アメリカの医師トーマス・ブリッティンガムは、「白血病が人から人に感染するかどうか」を確かめたいと思った。それで、どうしたか。前者は淋病患者の膿を自分の性器に塗りつけ、後者は白血病患者の血液を自分に注射したというのである。(中略)
安全性云々の前に、その様子を思い浮かべることさえ生理的にきつい実験例も数々登場するが、中でも圧巻は黄熱病研究のくだりである。感染経路を解明するため、ある研究者は患者の「黒い嘔吐物」をとろ火で煮て自らその蒸気を吸入し、自分の血管に嘔吐物を注射し、患者の血液、汗、尿を自分に塗りつけ、患者の唾液、血液、嘔吐物を飲んだという。幸いにも黄熱病はそのようなルートで感染する病気ではなかったため、研究者は無事だったのだが、実験した時点では無事だという保証などまったくなかったのである。また、仮に百パーセント安全だと分かっていたとしても、そんなことができる人間がいったいどれだけいるだろうか。
著者は、「使命感よりもさらに深いところで彼らを自己実験に向かわせたものは、純粋な探求心(好奇心)だったのではないだろうか」と推理しています。
「使命感」といえば「ひとさまのため」ですが、「探求心(好奇心)」は自分のため。どちらが究極まで頑張れるかといえば、後者ということかもしれません。
科学の歴史は、わからないことをありきたりの実験から順当な仮説をたて、まっすぐな上り坂を登るように発展したわけではなく、極論や暴走、ハプニングなどで新たな真実にたどり着くことが少なくありません。
真実は極論からうまれるといいます。ジャック・モノーではありませんが、出来事は必然と偶然で起こるものです。
『世にも奇妙な人体実験の話』は、私たち人類が獲得している現在の真実には、「無謀」な人体実験で得られた「偶然」があるという話を教えてくれているのです。
では、著者は、どうしてそんな無謀話を書きたかったのでしょうか。
彼らの無謀ぶりを笑いたかったのでしょうか。それとも、命がけの仕事をしたのに英雄視されていない彼らの労に報いるべく、現在の研究者たちに対して、「毒の研究者は彼らを見習って自ら毒を飲め」といいたかったのでしょうか。
私は、そのどちらでもないと思います。
どんな仕事にも、「常識」と「非常識(もしくは違法)」の間でのギリギリの選択というのはあると思います。そのぎりぎりの緊迫した選択こそ、より高次な結論が得られる契機になっている、ということを言いたかったのではないでしょうか。
そのためには、実際に毒を飲むかどうかは別として、毒を飲む「マッド」な価値観をつねに「常識」と対比させる緊張感を自分の中に持てということではないかと思います。
たとえば、昨今の科学者(医学者)の、生命を管理できる研究には、「未知の発見」と「倫理」のせめぎあいがあります。そのせめぎあいを行うセンスが大切なのです。
倫理感の欠片もない科学者(医学者)は御免こうむりたいですが、逆に倫理ばかり気にしている者は科学(医学)を先に進めることに貢献できません。
倫理という壁と向き合いながらも、その突破口となる前向きな結論をひねり出すことに意義がある、ということだと思います。
なかなかむずかしいですけどね。
この記事へのコメント
医学の進歩はいろいろな人の
おかげで今があるのですね。
思い出したのは・・・華岡青洲です。
身近な人を巻き込んでまでも・・・多くの人に役立つものを
作り出す研究への執念・・・・
それらがあって・・・今の医学があるんですよね〜
多分・・・これからも・・・・。
人体実験なんてプレゼンしたら
国も企業もドン引きしますしね
昔の人はとても純粋だったのかもしれませんね・・・
今は人体実験しなくても人体の細胞を作れるようになったから
だいぶいいでしょうね
でも細胞には意識はまったくないのかな~
なんてことを考えるとちょっと怖いです
お食事中には読んだり聞いたりしたくない
お話しばかりですね(笑)。
でも、正直、その手の話は嫌いじゃないです(笑)。
たった今、図書館に予約を入れました。