力道山の50回忌、弔い上げと法号と国籍
力道山といえば、日本プロレス界の父などといわれます。街頭テレビで敗戦国民を元気付けたと、戦後史書の多くには書きとめられている“国民的ヒーロー”の力道山。今日12月15日はその力道山の命日にあたります。このブログ「戦後史の激動」では、昨年のこの日も力道山について記事を書きました。が、今年は50回忌の年忌法要にあたる年なので、再び書かせていただきます。
東京・赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」で、住吉連合系暴力団の大日本興業組員に、登山ナイフで腹を刺されたのが1963年12月8日午後11時10分ごろ。
一時は快方に向かっているとも報じられたものの1週間後の15日、腹膜炎から腸閉塞を併発し、2度の手術の甲斐もなく亡くなりました。
死因については諸説あります。敬子夫人によれば、『プロレスへの遺言状』(ユセフトルコ著、河出書房新社)で、長年の闘いから体中ボロボロで治療に耐えられない状態であったことを告白。その後上梓された『夫・力道山の慟哭―没後40年 未亡人が初めて明かす衝撃秘話』(双葉社)では、「医療ミス」があったとも述べています。
神道や仏教の宗派でも一部では33回忌で区切り(仏教では弔い上げ)とする場合もありますが、力道山ぐらいの人になるとそうはいかないようで、50回忌の法要が、池上本門寺で今日行われるそうです。
50回忌で、「ご先祖様」ということになるわけですね。
ちなみに、これが三回忌で集まった日本プロレスのレスラー一同です。(『激動の昭和スポーツ史10』(ベースボール・マガジン社)より)

当時は、プロレス団体はここだけだったので豪華な顔ぶれです。アントニオ猪木だけは渡米中でいません。
力道山も50回忌ですが、ここにうつっているレスラーもずいぶん亡くなってしまいました。存命であることが確認できているのは、マサ斎藤(後列左端)、グレート小鹿(後列左から5人目)、遠藤幸吉(後列中央の黒めがね)、グレート・ザ・カブキ(前列左端)、魁勝司(前列左から3人目)ぐらいでしょう。
平均寿命を考えると、プロレスラーは短命といわざるを得ません。無理なトレーニングと過激な試合、暴飲暴食などがたたっているのかもしれません。
力道山の、戒名にあたる法号は大光院力道日源居士。池上本門寺の檀家だけあって、ちゃんと日蓮宗の「日」という文字が入っています。
戒名というのは、厳しい戒律を守って仏門に入った人が授かる、という前提でつけられるものです。
天台宗や真言宗、浄土宗、曹洞宗など仏教宗派の大半はそう読んでいますが、日蓮宗の法華信者は、霊山浄土へ生まれ変わるとされているため戒名とはいいません。
余談ですが、浄土真宗も戒名とはいいません。亡くなって得る名前ではなく、生前に入門して受けるものとされ、法名といいます。
また、浄土真宗では、「ご冥福をお祈りします」「お悔やみ申し上げます」などという表現はしません。人は亡くなれば往生するものなので、死後の幸福(冥福)を祈る必要がないという考え方です。
つまり、訃報に際して、誰にでも「ご冥福をお祈りします」と言ってはいけないわけです。
そこで私は、亡くなった方の宗派がわからないときは、どなたでも間違いないように、「生前のご遺徳をお偲び申し上げます」と表現しています。
話を力道山に戻します。
ネットで力道山についての書き込みを見ると、しばしば、力道山の出自(国籍)を取り沙汰して、揶揄するものが出てきます。
これはデリケートな問題で、立場や考えによって意見は様々だと思うのですが、力道山を語る機会もこれからは少なくなってくると思いますので、その件で一言します。
当時、敗戦国として物心ともに疲弊しきっていた日本人にとって、外国人を倒すプロレスはそれ自体が勇気と希望を与える出来事でした。
力道山もそれはわかっていて、当時、若手レスラーが昼食に焼肉を食べただけでも鉄拳制裁するほど自分の故国に関することを遠ざけており、少なくとも張本勲氏のような在日ギミックは使わず、日本人のためのヒーローに徹しました。
占領化時代に長崎の百田家に養子縁組しているので、そもそも「在日」ではないし……。
力道山の長女が北朝鮮にいるというニュースが流れたとき、すぐさま「会いに行く」とアントニオ猪木は言い出しましたが、息子たちが所属した全日本プロレスではその存在自体を否定。プロレスリング・ノアでもその態度はかわりませんでした。
真意はわかりませんが、金信洛(力道山の本名)は北朝鮮の生まれでも、力道山はあくまでも日本で誕生して育った人物である、という意思表示なのだと私は解釈しています。
本人の意思で日本国籍をとり、日本人のヒーローとして生きていくことにした、日本のリングで外国人を倒して日本人の溜飲が下がった、ということなら、それはそれでいいのではないでしょうか。
また、力道山は政財界、さらには裏社会の要人ともパイプを持つことで、プロレスの権威付けと興行形態の確立を行い、日本テレビの正力松太郎氏、三菱電機の関義長氏と組んでプロレス中継も開始したことで、プロレスは日本の復興とともに成長するテレビの象徴的なコンテンツになりました。
それは、高度経済成長時代にマッチするといわれた「明るく楽しく豪快な」ジャイアント馬場時代のプロレス中継に引き継がれていきます。
情報と人脈をしっかり得て、それをフル活用。私たち一般人もこのへんは学ぶべき面があるかもしれません。
まあ、力道山という人の生き方は、実際にはきれいごとばかりではなくダークな話もあるのですが、とにかくテレビとプロレスが連携して大きくなっていったことだけは間違いない話です。
今日のオマケはランドマーク・東京・大田区にある大田区総合体育館です。

撮りに行ったのが午後なのですが、さいきんは日が落ちるのがはやくて、もう暗くなっていました。すみません

これは、東京オリンピックを記念して作られた旧大田区体育館を建て替えたものです。私はこの旧体育館のデザインの方が好きですけどね

正面には、記念の像があります。
力道山時代の興行はありませんが、プロレスの興行は旧体育館でしばしば行われました。新日本プロレスができたばかりの頃の、アントニオ猪木対カール・ゴッチ戦はここで行われています。
東京・赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」で、住吉連合系暴力団の大日本興業組員に、登山ナイフで腹を刺されたのが1963年12月8日午後11時10分ごろ。
一時は快方に向かっているとも報じられたものの1週間後の15日、腹膜炎から腸閉塞を併発し、2度の手術の甲斐もなく亡くなりました。
死因については諸説あります。敬子夫人によれば、『プロレスへの遺言状』(ユセフトルコ著、河出書房新社)で、長年の闘いから体中ボロボロで治療に耐えられない状態であったことを告白。その後上梓された『夫・力道山の慟哭―没後40年 未亡人が初めて明かす衝撃秘話』(双葉社)では、「医療ミス」があったとも述べています。
神道や仏教の宗派でも一部では33回忌で区切り(仏教では弔い上げ)とする場合もありますが、力道山ぐらいの人になるとそうはいかないようで、50回忌の法要が、池上本門寺で今日行われるそうです。
50回忌で、「ご先祖様」ということになるわけですね。
ちなみに、これが三回忌で集まった日本プロレスのレスラー一同です。(『激動の昭和スポーツ史10』(ベースボール・マガジン社)より)

当時は、プロレス団体はここだけだったので豪華な顔ぶれです。アントニオ猪木だけは渡米中でいません。
力道山も50回忌ですが、ここにうつっているレスラーもずいぶん亡くなってしまいました。存命であることが確認できているのは、マサ斎藤(後列左端)、グレート小鹿(後列左から5人目)、遠藤幸吉(後列中央の黒めがね)、グレート・ザ・カブキ(前列左端)、魁勝司(前列左から3人目)ぐらいでしょう。
平均寿命を考えると、プロレスラーは短命といわざるを得ません。無理なトレーニングと過激な試合、暴飲暴食などがたたっているのかもしれません。
力道山の、戒名にあたる法号は大光院力道日源居士。池上本門寺の檀家だけあって、ちゃんと日蓮宗の「日」という文字が入っています。
戒名というのは、厳しい戒律を守って仏門に入った人が授かる、という前提でつけられるものです。
天台宗や真言宗、浄土宗、曹洞宗など仏教宗派の大半はそう読んでいますが、日蓮宗の法華信者は、霊山浄土へ生まれ変わるとされているため戒名とはいいません。
余談ですが、浄土真宗も戒名とはいいません。亡くなって得る名前ではなく、生前に入門して受けるものとされ、法名といいます。
また、浄土真宗では、「ご冥福をお祈りします」「お悔やみ申し上げます」などという表現はしません。人は亡くなれば往生するものなので、死後の幸福(冥福)を祈る必要がないという考え方です。
つまり、訃報に際して、誰にでも「ご冥福をお祈りします」と言ってはいけないわけです。
そこで私は、亡くなった方の宗派がわからないときは、どなたでも間違いないように、「生前のご遺徳をお偲び申し上げます」と表現しています。
話を力道山に戻します。
ネットで力道山についての書き込みを見ると、しばしば、力道山の出自(国籍)を取り沙汰して、揶揄するものが出てきます。
これはデリケートな問題で、立場や考えによって意見は様々だと思うのですが、力道山を語る機会もこれからは少なくなってくると思いますので、その件で一言します。
当時、敗戦国として物心ともに疲弊しきっていた日本人にとって、外国人を倒すプロレスはそれ自体が勇気と希望を与える出来事でした。
力道山もそれはわかっていて、当時、若手レスラーが昼食に焼肉を食べただけでも鉄拳制裁するほど自分の故国に関することを遠ざけており、少なくとも張本勲氏のような在日ギミックは使わず、日本人のためのヒーローに徹しました。
占領化時代に長崎の百田家に養子縁組しているので、そもそも「在日」ではないし……。
力道山の長女が北朝鮮にいるというニュースが流れたとき、すぐさま「会いに行く」とアントニオ猪木は言い出しましたが、息子たちが所属した全日本プロレスではその存在自体を否定。プロレスリング・ノアでもその態度はかわりませんでした。
真意はわかりませんが、金信洛(力道山の本名)は北朝鮮の生まれでも、力道山はあくまでも日本で誕生して育った人物である、という意思表示なのだと私は解釈しています。
本人の意思で日本国籍をとり、日本人のヒーローとして生きていくことにした、日本のリングで外国人を倒して日本人の溜飲が下がった、ということなら、それはそれでいいのではないでしょうか。
また、力道山は政財界、さらには裏社会の要人ともパイプを持つことで、プロレスの権威付けと興行形態の確立を行い、日本テレビの正力松太郎氏、三菱電機の関義長氏と組んでプロレス中継も開始したことで、プロレスは日本の復興とともに成長するテレビの象徴的なコンテンツになりました。
それは、高度経済成長時代にマッチするといわれた「明るく楽しく豪快な」ジャイアント馬場時代のプロレス中継に引き継がれていきます。
情報と人脈をしっかり得て、それをフル活用。私たち一般人もこのへんは学ぶべき面があるかもしれません。
まあ、力道山という人の生き方は、実際にはきれいごとばかりではなくダークな話もあるのですが、とにかくテレビとプロレスが連携して大きくなっていったことだけは間違いない話です。
今日のオマケはランドマーク・東京・大田区にある大田区総合体育館です。

撮りに行ったのが午後なのですが、さいきんは日が落ちるのがはやくて、もう暗くなっていました。すみません

これは、東京オリンピックを記念して作られた旧大田区体育館を建て替えたものです。私はこの旧体育館のデザインの方が好きですけどね

正面には、記念の像があります。
力道山時代の興行はありませんが、プロレスの興行は旧体育館でしばしば行われました。新日本プロレスができたばかりの頃の、アントニオ猪木対カール・ゴッチ戦はここで行われています。
この記事へのコメント
写真の人たち、馬場サン(たぶん)だけ知ってる
今年で50回忌なのですね。
大田区立総合体育館、確かに建て替える前の方がデザイン的に良い感じですね^^
なんとなく、国立競技場第一体育館と似た雰囲気がありますね^^
私も「明るく楽しく豪快なプロレス」を楽しんだ世代です。
昔のプロレスは理屈じゃなく、単純に楽しめましたね。
池上本門寺は職場に近いのですが、
力道山のお墓を観に行ったことがありません。
一度観に…とは思っているのですが…。
ことはありません。ルーテーズやシャープ兄弟との
試合での空手チョップに熱狂しました。遠藤幸吉の
名前は覚えています。当時のRCAテレビが実家に
今も残っています。
プロレス、ゴールデンタイム時代が懐かしいです。。。
勉強になりました。
今まで「お悔み申し上げます」で統一していましたので
以後注意したいと思います。
レスラーがずらりと並ぶと、
同性ながら頼もしく胸がキュンとなりますね(笑
ついてはお悔やみ申し上げます
としか申しようがございませんが、
アドビ社の登録ページに履歴登録が残っていれば
電話でご相談されてみてはいかがでしょうか?ではまた、
ありがとうございました。
先日の親戚は曹洞宗だったので、死後の幸福(冥福)を祈る派でした。
プロレスは馬場さんのことが 父(故人)はとても好きでした。
子供心には?でしたけどw
今年が50回忌だったのですね。。。
こちらにいる間に一度は池上本門寺を訪れてみたいと
思っております。
これだけ、国民に好かれているスターって
今いるんでしょうか・・
"takeda"
中はどうなっているんでしょうね。
屋上は緑化されているような感じですね。
力道山のお墓を教えてもらいました。
Always三丁目の夕日で、
テレビを初めて点けたシーンが力道山の試合だったような気がします。
そう考えると、昭和も遠い過去のような気がします。
吉村道明氏です。
僕はこのレスラーが大好きでした。
力道山の空手チョップより、吉村のと飛び蹴りのほうが威力が
あるような気がしていました。
そして生の力道山を目撃したことがあります。
母の実家の山(茨城)に、力道山がイノシシ狩りに来たんです。
たまたま母の実家にいた僕(小学1年生)は、山から下りてきた力道山を目撃することができました。
生まれて初めて見たスーパースターでした。
格闘技なおには疎いですけど
さすがに知っている名前です。
力道山と王貞治氏は凄く共通した所があると思います
2人とも祖国を認識しながら日本人のヒーローである事に徹して生きてこられました。ただ力道山の時代には難しい世の中の難しい情勢もあり、王氏の様にオープンにふるまう事は難しかったでしょうね。でも王さん始め在日の方々の活躍の基盤は力道山無しには語れないと思います。