体罰は“熱意の表現”なのか
体罰がまた問題になっています。大阪の高校生男子がバスケットボール部顧問から体罰を受けた翌日に自殺した問題を受けて、元プロ野球投手の桑田真澄氏が、インタビューで体罰を否定したことがヤフートピックスでニュースになっています。私は、「暴力」というものは全般に肯定しませんが、論点を絞るために今回は「体罰」に限定して書きます。
桑田真澄氏の話は、昨日のNHKニュースでも報じられていました。桑田真澄氏は、自らの経験から「体罰は自立妨げ成長の芽摘む」と述べました。
私が印象に残った論拠は次の2点です。
・暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法
・「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きる
まさに体罰の本質が言い表されていると思います。
なぜ、体罰が横行するのでしょうか。
シンプルに見れば、日本の教育・スポーツ界には、根強い体罰肯定論、しかも体罰否定論を激しく否定する肯定論があるからです。
つまり、体罰はいけないことだけどやってしまう、ではなく、そこに正当化の「論理的手続き」を踏むために、体罰を「必要悪」としたり、中には否定することを「甘い」「きれいごと」であるかのように中傷したりする論拠がセットになっている。
それによって、体罰に対する評価は、肯定派と否定派が折り合えない対立になっているのです。
暴力それ自体は、良し悪し論でいえば「悪し」であり、行為に対する責任は免れません。これはもう、はっきりさせるべきです。
ただ誤解を恐れずに書けば、人間は間違いうるものなので、感情が高ぶって手が出ることはあると思います。人間に幻想を抱かず現実からスタートするなら、それは良し悪しとは別にあり得ることを認めるべきです。
問題は、行為自体の「悪し」を認めるかどうかです。それを正当化するいかなる主張も私には容認できないのです。そこに「ある程度」だの「条件付き」だので体罰を容認するから体罰事件がいつまでも繰り返されるのです。
確かに、相手に対して無関心なら体罰はないでしょう。
“熱意の表現”という言い方は嘘とはいえないでしょう。
しかし、です。ここから先は正直にいきましょう。
体罰をしたことのあるあなた、殴る瞬間もそうだといえますか。
「なんでわからないんだ」と思って感情を抑えきれずに殴っているだけでしょう。
自分の意思を無理やり相手におしつけたいから殴っているだけでしょう。
違いますか。
まあ、私はスポーツマンではありませんし、中には桑田氏とは違い、指導者にぶん殴られないとヤル気が起こらないという方もおられるかもしれません。
ですが、「ぼくに限っては体罰されても文句いうつもりはない」という個人的な話を、即「体罰あってもいいじゃないか」という全体の話にして欲しくはないのです。
体罰というと、いかにも日本固有の文化である武士道の“身体(命)を賭けたやりとり”のようなイメージがありますが、武士道には「体罰」などという概念はなく、明治維新後に欧米の教育を持ち込んだ際に「導入」されたものであると識者は指摘しています。
欧米の教育を持ち込んだ際に「導入」されたということは、富国強兵や国力増強の進軍ラッパとして使われてきたということです。
つまり、体罰とは、いわば資本主義と民主主義の生成期に発生した「残りカス」ともいえます。
その意味で、体罰という「残りカス」を必要悪であれ何であれ、容認するわが国の民度は、民主主義は導入されたものの、残念ながらそれが熟していないレベルといえるのではないでしょうか。
一部には、今回は自殺を批判視することをもって指導者を擁護する意見もありますが、自殺という行為の是非や自殺を許してしまう問題はまた別途論じるべきで、指導者の行為はやはり体罰の問題としてとらえるべきです。
それから、運動部に体罰が起こることをもって、スポーツと暴力をダイレクトに結びつけ、さらにはプロレスラー・力道山が刺殺されたことまでその根拠とする大槻義彦氏のような乱暴な説(大槻義彦氏のブログ参照)もあります。
大槻義彦氏は子ども時代、スポーツが苦手だったので物理学者になったそうですが、だからといってそのような見解で溜飲を下げるのは、スポーツや競技者を愚弄する暴論です。
体罰を肯定する考え方は、競技者の原罪でもなく、競技それ自体に還元すべきものでもない、社会的に作られたものとして議論すべきです。
桑田真澄氏の話は、昨日のNHKニュースでも報じられていました。桑田真澄氏は、自らの経験から「体罰は自立妨げ成長の芽摘む」と述べました。
私が印象に残った論拠は次の2点です。
・暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法
・「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きる
まさに体罰の本質が言い表されていると思います。
なぜ、体罰が横行するのでしょうか。
シンプルに見れば、日本の教育・スポーツ界には、根強い体罰肯定論、しかも体罰否定論を激しく否定する肯定論があるからです。
つまり、体罰はいけないことだけどやってしまう、ではなく、そこに正当化の「論理的手続き」を踏むために、体罰を「必要悪」としたり、中には否定することを「甘い」「きれいごと」であるかのように中傷したりする論拠がセットになっている。
それによって、体罰に対する評価は、肯定派と否定派が折り合えない対立になっているのです。
暴力それ自体は、良し悪し論でいえば「悪し」であり、行為に対する責任は免れません。これはもう、はっきりさせるべきです。
ただ誤解を恐れずに書けば、人間は間違いうるものなので、感情が高ぶって手が出ることはあると思います。人間に幻想を抱かず現実からスタートするなら、それは良し悪しとは別にあり得ることを認めるべきです。
問題は、行為自体の「悪し」を認めるかどうかです。それを正当化するいかなる主張も私には容認できないのです。そこに「ある程度」だの「条件付き」だので体罰を容認するから体罰事件がいつまでも繰り返されるのです。
確かに、相手に対して無関心なら体罰はないでしょう。
“熱意の表現”という言い方は嘘とはいえないでしょう。
しかし、です。ここから先は正直にいきましょう。
体罰をしたことのあるあなた、殴る瞬間もそうだといえますか。
「なんでわからないんだ」と思って感情を抑えきれずに殴っているだけでしょう。
自分の意思を無理やり相手におしつけたいから殴っているだけでしょう。
違いますか。
まあ、私はスポーツマンではありませんし、中には桑田氏とは違い、指導者にぶん殴られないとヤル気が起こらないという方もおられるかもしれません。
ですが、「ぼくに限っては体罰されても文句いうつもりはない」という個人的な話を、即「体罰あってもいいじゃないか」という全体の話にして欲しくはないのです。
体罰というと、いかにも日本固有の文化である武士道の“身体(命)を賭けたやりとり”のようなイメージがありますが、武士道には「体罰」などという概念はなく、明治維新後に欧米の教育を持ち込んだ際に「導入」されたものであると識者は指摘しています。
欧米の教育を持ち込んだ際に「導入」されたということは、富国強兵や国力増強の進軍ラッパとして使われてきたということです。
つまり、体罰とは、いわば資本主義と民主主義の生成期に発生した「残りカス」ともいえます。
その意味で、体罰という「残りカス」を必要悪であれ何であれ、容認するわが国の民度は、民主主義は導入されたものの、残念ながらそれが熟していないレベルといえるのではないでしょうか。
一部には、今回は自殺を批判視することをもって指導者を擁護する意見もありますが、自殺という行為の是非や自殺を許してしまう問題はまた別途論じるべきで、指導者の行為はやはり体罰の問題としてとらえるべきです。
それから、運動部に体罰が起こることをもって、スポーツと暴力をダイレクトに結びつけ、さらにはプロレスラー・力道山が刺殺されたことまでその根拠とする大槻義彦氏のような乱暴な説(大槻義彦氏のブログ参照)もあります。
大槻義彦氏は子ども時代、スポーツが苦手だったので物理学者になったそうですが、だからといってそのような見解で溜飲を下げるのは、スポーツや競技者を愚弄する暴論です。
体罰を肯定する考え方は、競技者の原罪でもなく、競技それ自体に還元すべきものでもない、社会的に作られたものとして議論すべきです。
この記事へのコメント
やっぱり暴力ですよね。
しつけと体罰は違いますよね。これは学校教育の場だけでなく 地域や家庭でも 当てはまることですよね。☆
その中で弁解の余地なしは体罰。
>・「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図
これが苦しいんですよね、子どもにとっては。。。
されたほうは、嫌な思い出として残ってしまうと思います。
それは一生消えないと思います。
本当にイヤダイヤダと・・・。
負のエネルギーにしかならないと思います。
根絶して欲しいです。
要するに己の指導法にケチつけられる事が
気に入らないだけなのです。それを容認する
周囲(保護者・学校等)が毅然としなければ体罰は
続くでしょう。
30発は単なる暴力だと思います
ひっぱたかれたことがあります。
叩かれて初めて先生が本気で
怒っていると気づき、ハッとしました。
大いに反省した思い出があります。
しつけと体罰の違いではありますが、
これが苦痛になる場合もあるわけですし、
しつけなら良くて体罰なら問題だと言うのも
おかしな話に思います。
暴力に変わりはない訳ですからね。
結局受け手次第なのでしょうか。
不登校になりそうでした
礼儀をそこで覚えるからしょうがないと諦めていましたが、
不自然な事だと思ってもいいのなら、
もしこれから先、子どもから相談を受けたら、
改善できる道を探したいと思いますー
難しい問題ですね、体罰と言ってもいろいろな理由があるでしょう。
まず自分の子供に一度も手を上げたことがない人は、数少ないと思います。
「教育」という名目で計算の上で行う事が出来る人なんて
いないと思っています。
やはり、そこには感情が先に立つわけであって、
それを「愛情」とか「教育」などというのは後付けの詭弁でしか
ないと私は感じております。
体罰と言うよりも、寧ろ暴力なのではって言いたいです。
昭和の時代は結構叩く先生もいたり、私が通っていた中学など授業中竹刀をもって授業する先生がいました。
今だったらPTAなどで大問題になるのでしょうが、当時は何も問題視されませんでした。
だから、こんな先生が現在でもいることに驚いています。
私の子供の頃は、30発も殴る先生なんていませんでした。
#往復ビンタとかはありましたが。。。
凶行と言ってもいいのではないでしょうか?
頬が腫れあがり 口が切れている。
これが事実なら 体罰ではなくリンチです。
大きな勘違いをしているのではありませんか。。
時には必要かと思います。
目上を畏れ、敬う気持ちを子供には持ってほしいですが、
大阪の事件はあれは指導の範囲を逸脱してますね。
それにしても、学校の先生って、本当に難しい職業だと思います。
若いころの教え子達が、そのときのことを笑いにして話してくれますが、反省してしまいます。
信頼関係があればこそですが、やっぱり暴力は行けません。ましてや人一人亡くなっているのです。無くならないまでも、傷ついていますから。
水分を摂るとダレる、という理由で水道の蛇口が全部針金で固定されていたというPL学園で、桑田さんが便器の水を隠れて飲んでいた!という証言でした。
それこそ、脱水症状、熱中症でこれも
死亡事故になりかねませんね~
この生徒が自殺した理由は本当に暴力だけなんですか?
今回の報道が、どうも私には納得できません。
その瞬間は、
多少なりともその人のストレス解消になっていると思う。
もしくは、
「殴るくらいお前の事を思ってやってるんだ」という、
自己陶酔。
でも先生の私に対する指導、きちんとした躾けを…
というものを感じていました。
だからと言って、体罰を肯定してはいけない…と思いました。