落合博満氏自○未遂報道。あなたにその願望はありますか?
落合博満「手首切り自殺未遂」という表紙の見出しが衝撃的な今週発売の『アサヒ芸能』(4月11日号)。講演で、例のごとく刺激的な発言を繰り返した後、「封印タブー過去」を突然切り出したというのです。
スキャンダル週刊誌だから大げさに書いているのだろう、と思いながらも、あの朴訥とした「オレ流」の人が、何をそんなに追い詰められたのだろう、と気になって雑誌を手に取ってしまいました。
落合博満氏が衝撃発言したのは、3月24日に行われた立正大学の講演。「マネジメントを語る」と題した経営学部の公開講座で、体罰・暴力を話題にしたときだそうです。
いずれにしても、今も体罰その他で悩んでいる人に、落合博満氏なりの激励だったのだと思います。気持ちとしては良くわかりますね。
ただ、水を差すわけではありませんが、その励まし方が通用しないときはどうしたらいいのでしょうか。
自殺を思いとどまっても、本当に「おもしろい楽しいことがいっぱいある」かどうかはわかりません。そもそも、少なくともその人にとってはなかったから自殺しようと思ったわけですしね。思いとどまらせても、その人はいずれ「なんだ、やっぱりつまんないじゃないか」と、またするかもしれません。
そうなると、なかなか止め方もむずかしいですよね。
みなさんは、過去にそのような願望はありましたか。どうやって思いとどまりましたか。
私は、そのような願望はこれまで1度たりとも抱いたことはありません。
といっても、別に倫理的に自ら手を下すことをためらっているからではないし、願望を抱かないほど順風満帆な人生を送ってきたわけでもありません。
むしろ順風満帆の逆です!
so-netブログ、各ブログ拝見すると、みなさん、これまでの人生、そして現在、大なり小なり辛酸をなめ、ご苦労を抱えていらっしゃることがわかります。
で、そこで気づいたことがあります。
悲運・不運・不幸等が骨の髄まで染み込まざるを得ないような人生を送った本当の苦労人の方々ほど、自分の暗い人生を第三者的にシニカルに見つめたり、淡々と述べたりしているのですね。
つまり、本当の苦労人というのは、いちいち「私は大変なのよ。この気持ちわかってよ」というアピール根性ありきではなく、静かに悟っているのです。
でも、その気持ちは私も何となくわかります。ということは、私も「本当の苦労人」の仲間に入れるのかな。
ちょっと重い話です。
2年前の“あの日”、夕方までは何事もなくありふれた営みで時間が過ぎていた私。何の前触れもなく我が家から火が立ち上り一瞬にして全焼。焼け跡から、心肺停止の妻と意識不明重体の2人の息子が、遺体用のカバーにかけられて救急車に運ばれる光景を経験させられました。
その時、どんな心境だったか。よく聞かれます。
妻子に対しては、「可哀そうになあ。さっきまでは普通に暮らしていたのに……」と胸が張り裂けんばかりの思いがもちろんありました。
しかし、自分自身については、自分が“独りぼっちになってしまう”ことについては、実をいうと意外と冷静でした。ああ、長年営んできた家庭が消滅するのはこんなもんか。あっけないな。そんな感じでした。
こう書くと、家族べったりの幸せな人たちは、とうてい理解できないでしょうね。
妻子に対して冷たいだろう。妻子がいっぺんにいなくなったら後を追いたくなって当然だろう、私だったら生きていられない……と思われるのではないでしょうか。
そういう考え方はね、やはりその人がホントの不幸を経験した人ではないからだと私は思います。
うまく表現できませんが、要するに不幸慣れしてしまうと、新たに不幸を経験しても、どこかに「やっぱりそういうものか」というあきらめのような思いがあるのです。
ですから、そういう人は自殺はたぶん考えないのではないか、なんて思うわけです。
不運=自分の願望達成や自己実現ができない、不幸=他人の持つものを持てなかったり失ったりすること、ということです。つまり、不幸な人、不運な人の人生というのは、恵まれない「ほしのもと」で、望むものも得られない、何をやっても駄目だということです。
そんなインケツが自殺しようとしても、どうせ周囲に迷惑をかけるだけで結局は死ねないだろう。天の配剤主なるものがもしいるのなら、そいつは「死にたい」私を死なせてはくれないだろう。逆に、自分の一番楽しいとき、いちばん死にたくない時に命を奪おうとするのだろう、なんてひねくれて考えてしまうのです。
私よりも壮絶な人生を送られている方も多々おられるでしょうし、その方のすべてが私と同意見に違いない、なんて思ってはいませんが、少なくとも、自殺したがっている人。どんな理由かは知らないが、自分が一番不幸だと思うのはまだはやい、ということはいいたい。
死にたいという「願望」を抱いて行動できること自体、実は自分自身に絶望していない証拠なのです。なのに死んでしまうのは、やっぱりもったいないよなあ、なんて私は思いますけどね。
![週刊アサヒ芸能2013年4月11日号 [雑誌][2013.4.2] 週刊アサヒ芸能2013年4月11日号 [雑誌][2013.4.2]](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/61SB%2BqjjYeL._SL160_.jpg)
スキャンダル週刊誌だから大げさに書いているのだろう、と思いながらも、あの朴訥とした「オレ流」の人が、何をそんなに追い詰められたのだろう、と気になって雑誌を手に取ってしまいました。
落合博満氏が衝撃発言したのは、3月24日に行われた立正大学の講演。「マネジメントを語る」と題した経営学部の公開講座で、体罰・暴力を話題にしたときだそうです。
「死ぬのは簡単と言うけど、死ぬのは勇気がいります。死んだ人って勇気がないってよく言いますよね。これは、オレは違う(と思う)。オレだってこうやって、したことありますよ」落合博満氏は東洋大学に進学したものの、上下関係の厳しさと集団生活の免疫ができていないことから中退。野球一筋でやってきた人が、野球で入った大学を中退するというのは、野球人生の終わりを意味するだけでなく、人生そのものの終わりを意識せざるを得なかったということでしょうか。
そう話すと同時に、右手で左手首をスッと切るジェスチャーをしたのである。聴衆がアッケにとられると間髪入れずに畳みかける。
「あるけども、オレにはザクッとやるだけのふんぎり、勇気がなかったから、今ここにいるんだ。あれってすごい勇気だったんだ。その勇気をちょっと別のところに向けていけば、何も死に急ぐなよ、おもしろい楽しいことがいっぱいあるよ、ということを皆さんが伝えてくれれば、自殺を防いでいけるんじゃないか」(中略)
前出・スポーツ紙デスクは、「(未遂は)プロ入り前、ボウリング時代のことだと思う」
落合氏が言う「大学中退後に田舎に帰って、東芝府中に入るまでの2年間」のことである。デスクが続けて説明する。
「野球の夢破れて地元・秋町のボウリング場で、プロボウラーを目指しアルバイトをしていた時期です。『(野球の)目標がなくなった。こんなことしてよかったのかと思っていた』と、先が見えないつらい時代だったと漏らしたことがありました。講演でそんなことを話すのは初めてでしょう」
いずれにしても、今も体罰その他で悩んでいる人に、落合博満氏なりの激励だったのだと思います。気持ちとしては良くわかりますね。
ただ、水を差すわけではありませんが、その励まし方が通用しないときはどうしたらいいのでしょうか。
自殺を思いとどまっても、本当に「おもしろい楽しいことがいっぱいある」かどうかはわかりません。そもそも、少なくともその人にとってはなかったから自殺しようと思ったわけですしね。思いとどまらせても、その人はいずれ「なんだ、やっぱりつまんないじゃないか」と、またするかもしれません。
そうなると、なかなか止め方もむずかしいですよね。
みなさんは、過去にそのような願望はありましたか。どうやって思いとどまりましたか。
私は、そのような願望はこれまで1度たりとも抱いたことはありません。
といっても、別に倫理的に自ら手を下すことをためらっているからではないし、願望を抱かないほど順風満帆な人生を送ってきたわけでもありません。
むしろ順風満帆の逆です!
so-netブログ、各ブログ拝見すると、みなさん、これまでの人生、そして現在、大なり小なり辛酸をなめ、ご苦労を抱えていらっしゃることがわかります。
で、そこで気づいたことがあります。
悲運・不運・不幸等が骨の髄まで染み込まざるを得ないような人生を送った本当の苦労人の方々ほど、自分の暗い人生を第三者的にシニカルに見つめたり、淡々と述べたりしているのですね。
つまり、本当の苦労人というのは、いちいち「私は大変なのよ。この気持ちわかってよ」というアピール根性ありきではなく、静かに悟っているのです。
でも、その気持ちは私も何となくわかります。ということは、私も「本当の苦労人」の仲間に入れるのかな。
ちょっと重い話です。
2年前の“あの日”、夕方までは何事もなくありふれた営みで時間が過ぎていた私。何の前触れもなく我が家から火が立ち上り一瞬にして全焼。焼け跡から、心肺停止の妻と意識不明重体の2人の息子が、遺体用のカバーにかけられて救急車に運ばれる光景を経験させられました。
その時、どんな心境だったか。よく聞かれます。
妻子に対しては、「可哀そうになあ。さっきまでは普通に暮らしていたのに……」と胸が張り裂けんばかりの思いがもちろんありました。
しかし、自分自身については、自分が“独りぼっちになってしまう”ことについては、実をいうと意外と冷静でした。ああ、長年営んできた家庭が消滅するのはこんなもんか。あっけないな。そんな感じでした。
こう書くと、家族べったりの幸せな人たちは、とうてい理解できないでしょうね。
妻子に対して冷たいだろう。妻子がいっぺんにいなくなったら後を追いたくなって当然だろう、私だったら生きていられない……と思われるのではないでしょうか。
そういう考え方はね、やはりその人がホントの不幸を経験した人ではないからだと私は思います。
うまく表現できませんが、要するに不幸慣れしてしまうと、新たに不幸を経験しても、どこかに「やっぱりそういうものか」というあきらめのような思いがあるのです。
ですから、そういう人は自殺はたぶん考えないのではないか、なんて思うわけです。
不運=自分の願望達成や自己実現ができない、不幸=他人の持つものを持てなかったり失ったりすること、ということです。つまり、不幸な人、不運な人の人生というのは、恵まれない「ほしのもと」で、望むものも得られない、何をやっても駄目だということです。
そんなインケツが自殺しようとしても、どうせ周囲に迷惑をかけるだけで結局は死ねないだろう。天の配剤主なるものがもしいるのなら、そいつは「死にたい」私を死なせてはくれないだろう。逆に、自分の一番楽しいとき、いちばん死にたくない時に命を奪おうとするのだろう、なんてひねくれて考えてしまうのです。
私よりも壮絶な人生を送られている方も多々おられるでしょうし、その方のすべてが私と同意見に違いない、なんて思ってはいませんが、少なくとも、自殺したがっている人。どんな理由かは知らないが、自分が一番不幸だと思うのはまだはやい、ということはいいたい。
死にたいという「願望」を抱いて行動できること自体、実は自分自身に絶望していない証拠なのです。なのに死んでしまうのは、やっぱりもったいないよなあ、なんて私は思いますけどね。
![週刊アサヒ芸能2013年4月11日号 [雑誌][2013.4.2] 週刊アサヒ芸能2013年4月11日号 [雑誌][2013.4.2]](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/61SB%2BqjjYeL._SL160_.jpg)
週刊アサヒ芸能2013年4月11日号 [雑誌][2013.4.2]
- 作者: 徳間書店
- 出版社/メーカー: 徳間書店
- 発売日: 2013
- メディア: 雑誌
この記事へのコメント
そこまでくると、きわまれりという感もありますね。
おっしゃるように自分の不幸をやたらアピールするブログもあるみたいですが
私も苦労人のはしくれとして、そういう人たちとは世界が違うと思っているので閲覧すらしませんね。
私はいつも楽しそうでいいよね~なんて言われたり、
楽をしてると思われたり、時折そんなことがあります。
そういう時は心の中で「本当に悩んでたり辛いことは
誰にも話さないからね。」と思いつつ、にんまりして
否定せずにやりすごします。辛くて消えてしまいたく
なることもありますが、生きたいと思いながら30歳に
なったばかりで人生を終えた友人のことを思うと、
自分で幕引きをする気にはなれません。
気持ちの整理とか情報共有ならいいのですが、他人に同情してもらいたいというのは不可解です。ネットの向こう側の人がどんな目的や人格かもわからないのに。
落合さんの自殺未遂は昔の話ですね。
結局野球で成功したんだし、命あっての物種です。
100人いたら100人が違う物差しをもって生きている。
別々の価値観で苦労を感じる。
個別の経験を語れば共感はあるかもしれないけど
そうでない人には、肝心な部分は伝わらない。
いっぷくさんのように、大きな経験をすると
一つ土俵が上がるというか、ステージが変わるというか、
見かたが違ってきますよね。
ステージの異なる人に、情報として伝えることは有義だと
思うし、落合氏のように著名人だと効果も高いかも。
なんにせよ、「死にたい」と思う時、その瞬間さえ
乗り越えるきっかけがあればと思います。
時間さえあれば、チャンスはいくらでもあるし。
自分自身が激務で命を落としかけた時は、本当に「声を上げよう」とか「誰かにアピールしよう」とかは全く考えませんでしたから(単に考える暇が無かっただけかも知れませんけど...)。
周囲にアピールしている間は、多分まだかなり余裕がある状態なのでは?と思ってしまいますね。
それがちょっとゆるんだ時に自殺願望みたいなものが生まれるんじゃないかと思っています。
過労死のニュースなんかを見ていると働いてるときはそんなこと考える暇もないけど、ふっと休みになったりしたときに急にそういう衝動に駆られるんじゃないかと思います。
この記事を思い出せますようにと
自分がそうでなかった時期がなかったかと言われれば、そうでもないし・・・。
本当によく耐え忍んだと、自分で思う時期があるけれど、それは世間から見たら軽い話なのかもしれないし・・・。
いっぷくさんの大変な時期を思えば軽いもんだったな、と改めて思ったり。
あの、落合さんがそんなことを思った時期があった、そのことを公にするってことは偽りではないのでしょうし・・・。
ただ、他人のものさしから見れば軽重がはかれるのかもしれませんが、当事者から見たら、それはなんの役にも立たないものさしだったりするのかもしれませんね。
いずれにせよ、自ら、その方向には誰しもが進まないことを私は願いたいなと思います。
お祝いのコメント、ありがとうございました。
私は恵まれている方だと思います。
他人を羨むことはしたくないと思っています。
苦労を訴えることもしたくないですね。
考え方に共感できる人の1人です。
私自身、自殺を考えたことはありませんが、自殺と聞くと、「プレッシャー→鬱病→自殺」という現代病的な図式がまず浮かびます。
プレッシャーから解放されるだけなら自殺する必要はない訳ですが、責任感が強い方ほど、また、精神的に追い詰められるほどに、通常の冷静な思考が難しくなるのかも知れません。
自分も含めて、物も命も粗末にしてはいけないのだから、自殺はいけないこと。私はそんな風に思っています。
死にたいんじゃなくて、現状から逃げたかっただけ
なんだろうなと思うときがあります。
逃げたくてリストカットをした時よりも、献血をしている
時に指先が冷たくなっていった時の方が、死を意識
しました。何気ない日々に満足していることが一番
幸せなのかなとか・・・とりとめなくてすみません。
上手く気持ちが言葉になりません。
変な感想なんですが
マラソンで集団から脱落する選手を見ているような気持ちでした
もう一緒にいられないんだな
でも残ったものは走り続けないといけないんだな
と思いました
先日のコメントのお返事が不適切で失礼いたしました。
心からお詫びいたします。
私は思ったことはありますが・・・倫理観でとどまりました。
それでも、なぜ生きなければいけないのか、と問われると
今でもはっきり答えるのは難しいです。
たしかに大事や悩みの渦中にあるときには生きていれば
よいことがあると言われても全然感じません。
でも、辛さや悲しさに免疫ができた頃、一般論ではなく
自分で未来に何か意義や希望を見出せればそれは
生きる力になるのだと思います。
いっぷく さんの言われんとするところ、共感できます。
ただ、今の私には語れるだけの経験も、信念も持ち合わせていないのでコメントできない事をお許し下さい。
普段考えないことも
考えるのでしょうか。
人間生きて行くためには、苦難あり時に深く
考えすぎてとんだ事にもにもなります。それを
乗り切り明るい希望に向かって行きたいものです。
そう思える自分が幸せなのだと思う今日この頃です。
私も話し尽せないほど色々修羅場をくぐってきましたが、自殺しようとは思いませんでした。
いざとなったら、女は強いようです。
死なずに乗り越えたから今が有るのです。