ロス疑惑、真相は? 裁判で「シロ」と確定した日
ロス疑惑。ご存知ですか。1981年~1982年頃、アメリカ・ロサンゼルスで起こった日本人女性の銃殺・傷害事件がありました。一緒に重傷を負った夫は当初マスコミに被害者として持ち上げられましたが、週刊文春の記事「疑惑の銃弾」によって今度は被害者から一転して犯人扱いされ、その後、他の事件や銃撃事件などで夫は結局16年、拘置所勾留など収監されることになりました。その銃撃事件について、夫が犯人かどうかの「疑惑」をロス疑惑といいます。

15年前の1998年7月1日は、東京高裁が、いわゆる「ロス疑惑」である銃撃事件の控訴審で、殺人罪などに問われた夫の一審の無期懲役判決を破棄。無罪判決を言い渡した日です。
ロス疑惑といっても、もう40代以上の人でないとわからないかもしれませんね。
3年前、まだKAT-TUNをやめていない頃の赤西仁が、プライベートでロスに行ったかもしれないことを芸能マスコミに「ロス疑惑」と書かれていました。
もちろん、記者は「ロス疑惑」という言葉があるのを知っていて使ったと思いますが、そのニュースに関心を持つ世代の読者は、銃撃事件やそのマスコミ報道のことは分からなかったでしょう。
1981年11月18日。日本人夫妻がロスで「ラテン系の2人組の強盗に襲われた」と夫が証言する事件で妻は植物症に。
夫は大統領や州知事などに抗議文を送り、日本のマスコミは「美談の人」「悲劇の人」と大騒ぎしました。
ところが、2年後の1984年1月19日。『週刊文春』で、実は銃撃事件は夫が仕組んだ総額1億6600万円の保険金殺人だったとの告発記事が掲載されます。
同誌の「疑惑の銃弾」報道によって、マスコミはそれまで夫をさんざん悲劇のヒーローのように持ち上げておきながら、その自己批判もなく掌返しで、今度は夫のあることないことを書きたて、事件直後とは比べものにならないほどの大フィーバーになりました。
ここで指摘すべきは、例によってマスコミのご都合主義です。
ヒーローを作りそれで稼ぎ、怪しくなると、今度は叩き役として利用する。
一粒で2度おいしいではありませんが、マスコミの夫に対するやり口はそう表現せざるをえません。
しかも、例によって、容疑者にはあることないこと書いてもいいという思い上がり。夫が起訴される前からそのような恥知らずな報道が洪水のように書き立てられました。
ここには、マスコミ人自身の役割の勘違いがあります。
マスコミというのは、たかだか“報じる”だけの存在であり、決して“裁く”立場ではないはずです。
推定無罪という近代法の基本原則を平気で踏みにじり、犯人扱いした断罪報道を恥じないメディアは、その報道自体が反社会的であると私は思います。
もちろん、推定無罪であっても、ジャーナリズムとして書けることはあります。だから、記事にすること自体を頭から否定はしません。
事実と道理で、正真正銘の客観的な「疑惑」を論考することは問題ないと思います。その結果、犯人としての疑いをもったのなら、結果としてそのような報道になることもあるでしょう。
しかし、です。
このとき、覚悟や矜持や信念をもって書いていたメディアはどれくらいあったのでしょう。
結局、どいつもこいつも「アソコが書いてるからウチも書かないと乗り遅れちゃう」「このブームに便乗しよう」等々、自分の羅針盤も持たずに流れに乗るだけの無自覚な商売っ気だけで突っ走っていたのではないのか。
私が以前、付き合いのあった編集プロダクション(出版社の下請け編集制作会社)の社長が、「裁判は無罪だったが、真相は夫が犯人に決まっている」というようなことをブログに書いていたので、
「本人に見られたら名誉棄損で訴えられるかもよ。そういえる合理的な理由があって書いているのなら『書き屋』としては本望だろうが、あんたにそれだけの根拠と覚悟があるのか」とメールで忠告したら、速攻でその件りを削除していました。
判決後、叔母の水の江滝子は、「肩の荷がおりた、1日も早く会ってねぎらってあげたい」とコメント。そういえば、水の江滝子は実は叔母ではなく実母であるという報道もあった。
確かに似てたけど、だから事件とどう関係あるのか。そんなこと、別にどっちだっていいだろうに。
この高裁判決は、2003年3月6日に確定しました。

15年前の1998年7月1日は、東京高裁が、いわゆる「ロス疑惑」である銃撃事件の控訴審で、殺人罪などに問われた夫の一審の無期懲役判決を破棄。無罪判決を言い渡した日です。
ロス疑惑といっても、もう40代以上の人でないとわからないかもしれませんね。
3年前、まだKAT-TUNをやめていない頃の赤西仁が、プライベートでロスに行ったかもしれないことを芸能マスコミに「ロス疑惑」と書かれていました。
もちろん、記者は「ロス疑惑」という言葉があるのを知っていて使ったと思いますが、そのニュースに関心を持つ世代の読者は、銃撃事件やそのマスコミ報道のことは分からなかったでしょう。
1981年11月18日。日本人夫妻がロスで「ラテン系の2人組の強盗に襲われた」と夫が証言する事件で妻は植物症に。
夫は大統領や州知事などに抗議文を送り、日本のマスコミは「美談の人」「悲劇の人」と大騒ぎしました。
ところが、2年後の1984年1月19日。『週刊文春』で、実は銃撃事件は夫が仕組んだ総額1億6600万円の保険金殺人だったとの告発記事が掲載されます。
同誌の「疑惑の銃弾」報道によって、マスコミはそれまで夫をさんざん悲劇のヒーローのように持ち上げておきながら、その自己批判もなく掌返しで、今度は夫のあることないことを書きたて、事件直後とは比べものにならないほどの大フィーバーになりました。
ここで指摘すべきは、例によってマスコミのご都合主義です。
ヒーローを作りそれで稼ぎ、怪しくなると、今度は叩き役として利用する。
一粒で2度おいしいではありませんが、マスコミの夫に対するやり口はそう表現せざるをえません。
しかも、例によって、容疑者にはあることないこと書いてもいいという思い上がり。夫が起訴される前からそのような恥知らずな報道が洪水のように書き立てられました。
ここには、マスコミ人自身の役割の勘違いがあります。
マスコミというのは、たかだか“報じる”だけの存在であり、決して“裁く”立場ではないはずです。
推定無罪という近代法の基本原則を平気で踏みにじり、犯人扱いした断罪報道を恥じないメディアは、その報道自体が反社会的であると私は思います。
もちろん、推定無罪であっても、ジャーナリズムとして書けることはあります。だから、記事にすること自体を頭から否定はしません。
事実と道理で、正真正銘の客観的な「疑惑」を論考することは問題ないと思います。その結果、犯人としての疑いをもったのなら、結果としてそのような報道になることもあるでしょう。
しかし、です。
このとき、覚悟や矜持や信念をもって書いていたメディアはどれくらいあったのでしょう。
結局、どいつもこいつも「アソコが書いてるからウチも書かないと乗り遅れちゃう」「このブームに便乗しよう」等々、自分の羅針盤も持たずに流れに乗るだけの無自覚な商売っ気だけで突っ走っていたのではないのか。
私が以前、付き合いのあった編集プロダクション(出版社の下請け編集制作会社)の社長が、「裁判は無罪だったが、真相は夫が犯人に決まっている」というようなことをブログに書いていたので、
「本人に見られたら名誉棄損で訴えられるかもよ。そういえる合理的な理由があって書いているのなら『書き屋』としては本望だろうが、あんたにそれだけの根拠と覚悟があるのか」とメールで忠告したら、速攻でその件りを削除していました。
判決後、叔母の水の江滝子は、「肩の荷がおりた、1日も早く会ってねぎらってあげたい」とコメント。そういえば、水の江滝子は実は叔母ではなく実母であるという報道もあった。
確かに似てたけど、だから事件とどう関係あるのか。そんなこと、別にどっちだっていいだろうに。
この高裁判決は、2003年3月6日に確定しました。
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