『ひとりぼっちを笑うな』蛭子能収は本当に人と繋がりたくないの?
『ひとりぼっちを笑うな』(蛭子能収著、KADOKAWA)という書籍が大変話題になっているので読んでみました。今や漫画家というよりタレントの著者が、人と群れない、繋がらない、という持論を展開。それ自体はポンと膝を叩くようなことが多いのですが、ただ素朴な疑問として、それは著者が心からそう思っているのか、というところに若干疑問が残りました。
著者の蛭子能収は、テレビにレギュラーも持つタレント活動をしているので、今記事では敬称略とします
さて、蛭子能収は、太川陽介と旅をする番組で人気が出ているそうですが、ロケ地で太川陽介が必ず土地のものを食べる真面目な仕事をしている時に、蛭子能収はカレーライスを頼んでしまうKY。
でも本人曰く、そういう、人に合わせない自由さが人気につながっているかもしれないと分析しています。
もとより蛭子能収は、友達もいないし、別に作ろうとも思わない人。人と群れることも批判的です。
同書では、「友だち」偏重主義には、「日ごろから違和感を持っていた」とぶちあげています。
私も、やれ「絆」だの「つながる」だのハチノアタマだのといった綺麗事を振り回すことには疑問を抱いていたので、これは気が合いそうだ、と思って読み進めていきました。
私がなるほどと思ってメモしたことを抜粋します。
・誰かに束縛されたり、自由を脅かされたりすることがなによりも大嫌い。そのためには“群れ”のなかに自分の身を置いてはいけない。言いたいことを言えないのも、その人がそういうグループに属しているから、“グループ”には入らないようにと常々意識してきた。
・大皿料理が苦手。他人が箸をつけたものは食べたくないし、みんなで集まって大人数の状態で話すことなんて全体的にくだらないことをしゃべっている気がする。そのムダな時間をすごすならば、ひとりで街を散策していたほうがいいやって思えてくる。
・「群れ」にはかならずリーダーが君臨する。その人がもし性格の悪い人だったらグループはメチャクチャになる。一人なら大人しくても、群れることで大胆になることもある。LINEが絡んだ事件も、「お友達」グループは必ずしもいいものではなくて、ときとして凶暴になることのあらわれ。
・友だちは自分の自由を奪う存在にもなる。友だちなんて結局いつかはささいなことで離れるもの。「友だち」を作る努力をするくらいなら、「家族」を作る努力をしたはうがいい。
・内向的すぎるのはよくないから、共通の趣味などその世界が好きな人たちとコミュニケーションを取ることくらいはしたい。それも、会っても現地集合現地解散程度の付き合いで。

要するに、蛭子能収の持論は、仕事や趣味以外にわざわざ他人と仲良くする機会は要らない。場合によってはそれがマイナスになる、という考え方です。
ただし、人と関わることをまるごと否定するのではなく、友だちがいないと恥ずかしいとか、人と群れれば楽だとか、そうした外聞を気にしたりや他動的な人生観に陥ったりすることを戒めているのです。
それ以外にも、「贅沢品・高級品で自己主張しない」「政治的には左翼的考えを持っているが、政治運動やデモは“群れ”や“自己主張”だから苦手」「目立ちたくない」「自分を低く見積もっておく」など、俗人にありがちな虚栄心や自己顕示欲も評価していません。
考えてみれば、人間は「人の間」とは書きますが、人と関わるからこそ、自分を大きく見せたいとか、嫉妬するとか、つまらない感情もわいてくるし、無駄で不毛な営みに走ってしまうのです。
自分の生活欲求と自己実現だけをシンプルに、そして謙虚に見つめて生きていれば、関わり方にもよりますが、「友だち」も「無駄」という一面はあるのかもしれません。
いや、人生というのは、そうした「無駄」もアリなんだ、人とは仲良くしなければならない、という方もおられるでしょうが、私は蛭子能収の意見に基本的に賛成です。
蛭子能収は、そもそもその「ねばならない」を振りかざす考え方に反対なのです。
世の中はいろいろな人がいていい、十人十色だという考え方です。
ですから、社交的な人の存在も否定はしていません。でもそうでないのなら、無理して社交的になる必要はない、と言っているだけです。
ただ、気になるのは、蛭子能収が本心からそう思っているのか。
何らかの事情があって、そういうことにしているだけではないのか。
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というのは、私の見解とは異なる点もあったからです。
蛭子能収は、目立ちたくない、群れたくない、井戸端会議は嫌いといいながら、逆に他人に自分が噂されることが嫌いではないそうです。
私とはここが180度違います。
私は、その場にいない人の話で盛り上がれる人間が生理的に苦手です。
私自身は、いない人の話はしないし、そういう話題になったら話をかえるようにつとめます。
また、そういう話になりそうな集団には最初から近づきません。
悪口や噂話は、言っても聞いても何の得にもならないし、“群れる”ことによる暴走のひとつが、そうした他人の噂話の一人歩きだと思うからです。
たとえば、こういうブログなどの言論の場で、問題提起して批判しようが喧嘩を売ろうが、それはいいのです。
不特定多数の人が対等に参加できる公共の場ですから、お互い言論の自由で異論・反論もありだし、名誉毀損で訴えられればその責任も取らなければなりません。
しかし、クローズドな場でいくら何を言おうが、責任は問われない。
そんな「安全」なところで語るのはアンフェアです。
もとより、言われている当人が参加していないのですから、解決に行き着かない不毛な営みです。
「そんな綺麗事を言って、陰口を言わない人間なんかいるはずがない。お前は嘘つきだ」と思われますか。
私は3年前に、自宅の火災について、近所の井戸端会議で放火犯にされた悲しくくだらない過去があるので、自分は特定の人についての噂話や悪口などの陰口は絶対にしない!と決めているのです。そして、自分がしないということは、他人にもしてほしくないということです。

蛭子能収が言うには、自分が何もしなければ相手も悪口は言わないといいますが、そうでしょうか。
何もしなくても、顔が気に入らない、何が気に入らないなどと、他人の口に戸はたてられません。
私はそう思っています。
さて、蛭子能収と私の違いはどこにあるのでしょうか。
きっと、私は蛭子能収よりも、他人に対してセンシティブで不寛容で慎重なんでしょうね。
たとえば、蛭子能収は子供の頃、不良のパシリをさせられたり、弁当のおかずを摘まれたりしたそうですが、それを「いじめ」とは解釈せず、自分のことが好きだから関わってくるのだ、と考えたそうです。
なんというポジティブシンキング!
私なら許せないけどなあ。
不良の意図や自覚がどうであれ、行為が「いじめ」ならいじめでしょう。
ですから、私はここでこう勘ぐりました。
実は蛭子能収が「人と繋がりたくない」としているのは、本当は繋がりたいのに、うまく他人にアプローチできない不器用さから、つながれないことについて自分なりの自己正当化の理屈をつけているだけなのかもしれない。
そもそも『ひとりぼっちを笑うな』というタイトルに、そんな感じがあらわれていませんか。
つながらないことを積極的に主張するというより、つながれないことの言い訳のようなニュアンスですよね。
自己主張が嫌いでそのような控えめな書き方になったのかもしれませんが、もし私が同じテーマで書くとしたら、『ひとりぼっちがそんなに怖いのか?』という、もっと世間に対して挑発的なタイトルにしていたかもしれません。
人とつながらない理由というのは、曖昧なつながり方は嫌だという自分の意思があるからか、もしくは、繋がりたい気持ちはやまやまだけど、つながれないイタイ人なのか、そのどちらかではないでしょうか。
蛭子さんは、ホントのところどうなんでしょう。
本当につながることを拒絶する人なら、テレビやマンガのような人気仕事なんかできないと思うんですが……。

著者の蛭子能収は、テレビにレギュラーも持つタレント活動をしているので、今記事では敬称略とします
さて、蛭子能収は、太川陽介と旅をする番組で人気が出ているそうですが、ロケ地で太川陽介が必ず土地のものを食べる真面目な仕事をしている時に、蛭子能収はカレーライスを頼んでしまうKY。
でも本人曰く、そういう、人に合わせない自由さが人気につながっているかもしれないと分析しています。
もとより蛭子能収は、友達もいないし、別に作ろうとも思わない人。人と群れることも批判的です。
同書では、「友だち」偏重主義には、「日ごろから違和感を持っていた」とぶちあげています。
私も、やれ「絆」だの「つながる」だのハチノアタマだのといった綺麗事を振り回すことには疑問を抱いていたので、これは気が合いそうだ、と思って読み進めていきました。
私がなるほどと思ってメモしたことを抜粋します。
・誰かに束縛されたり、自由を脅かされたりすることがなによりも大嫌い。そのためには“群れ”のなかに自分の身を置いてはいけない。言いたいことを言えないのも、その人がそういうグループに属しているから、“グループ”には入らないようにと常々意識してきた。
・大皿料理が苦手。他人が箸をつけたものは食べたくないし、みんなで集まって大人数の状態で話すことなんて全体的にくだらないことをしゃべっている気がする。そのムダな時間をすごすならば、ひとりで街を散策していたほうがいいやって思えてくる。
・「群れ」にはかならずリーダーが君臨する。その人がもし性格の悪い人だったらグループはメチャクチャになる。一人なら大人しくても、群れることで大胆になることもある。LINEが絡んだ事件も、「お友達」グループは必ずしもいいものではなくて、ときとして凶暴になることのあらわれ。
・友だちは自分の自由を奪う存在にもなる。友だちなんて結局いつかはささいなことで離れるもの。「友だち」を作る努力をするくらいなら、「家族」を作る努力をしたはうがいい。
・内向的すぎるのはよくないから、共通の趣味などその世界が好きな人たちとコミュニケーションを取ることくらいはしたい。それも、会っても現地集合現地解散程度の付き合いで。

要するに、蛭子能収の持論は、仕事や趣味以外にわざわざ他人と仲良くする機会は要らない。場合によってはそれがマイナスになる、という考え方です。
ただし、人と関わることをまるごと否定するのではなく、友だちがいないと恥ずかしいとか、人と群れれば楽だとか、そうした外聞を気にしたりや他動的な人生観に陥ったりすることを戒めているのです。
それ以外にも、「贅沢品・高級品で自己主張しない」「政治的には左翼的考えを持っているが、政治運動やデモは“群れ”や“自己主張”だから苦手」「目立ちたくない」「自分を低く見積もっておく」など、俗人にありがちな虚栄心や自己顕示欲も評価していません。
考えてみれば、人間は「人の間」とは書きますが、人と関わるからこそ、自分を大きく見せたいとか、嫉妬するとか、つまらない感情もわいてくるし、無駄で不毛な営みに走ってしまうのです。
自分の生活欲求と自己実現だけをシンプルに、そして謙虚に見つめて生きていれば、関わり方にもよりますが、「友だち」も「無駄」という一面はあるのかもしれません。
いや、人生というのは、そうした「無駄」もアリなんだ、人とは仲良くしなければならない、という方もおられるでしょうが、私は蛭子能収の意見に基本的に賛成です。
蛭子能収は、そもそもその「ねばならない」を振りかざす考え方に反対なのです。
世の中はいろいろな人がいていい、十人十色だという考え方です。
ですから、社交的な人の存在も否定はしていません。でもそうでないのなら、無理して社交的になる必要はない、と言っているだけです。
ただ、気になるのは、蛭子能収が本心からそう思っているのか。
何らかの事情があって、そういうことにしているだけではないのか。
群れるのが嫌いな人がどうして他人の悪口を許せるのか
というのは、私の見解とは異なる点もあったからです。
蛭子能収は、目立ちたくない、群れたくない、井戸端会議は嫌いといいながら、逆に他人に自分が噂されることが嫌いではないそうです。
私とはここが180度違います。
私は、その場にいない人の話で盛り上がれる人間が生理的に苦手です。
私自身は、いない人の話はしないし、そういう話題になったら話をかえるようにつとめます。
また、そういう話になりそうな集団には最初から近づきません。
悪口や噂話は、言っても聞いても何の得にもならないし、“群れる”ことによる暴走のひとつが、そうした他人の噂話の一人歩きだと思うからです。
たとえば、こういうブログなどの言論の場で、問題提起して批判しようが喧嘩を売ろうが、それはいいのです。
不特定多数の人が対等に参加できる公共の場ですから、お互い言論の自由で異論・反論もありだし、名誉毀損で訴えられればその責任も取らなければなりません。
しかし、クローズドな場でいくら何を言おうが、責任は問われない。
そんな「安全」なところで語るのはアンフェアです。
もとより、言われている当人が参加していないのですから、解決に行き着かない不毛な営みです。
「そんな綺麗事を言って、陰口を言わない人間なんかいるはずがない。お前は嘘つきだ」と思われますか。
私は3年前に、自宅の火災について、近所の井戸端会議で放火犯にされた悲しくくだらない過去があるので、自分は特定の人についての噂話や悪口などの陰口は絶対にしない!と決めているのです。そして、自分がしないということは、他人にもしてほしくないということです。

蛭子能収が言うには、自分が何もしなければ相手も悪口は言わないといいますが、そうでしょうか。
何もしなくても、顔が気に入らない、何が気に入らないなどと、他人の口に戸はたてられません。
私はそう思っています。
さて、蛭子能収と私の違いはどこにあるのでしょうか。
きっと、私は蛭子能収よりも、他人に対してセンシティブで不寛容で慎重なんでしょうね。
たとえば、蛭子能収は子供の頃、不良のパシリをさせられたり、弁当のおかずを摘まれたりしたそうですが、それを「いじめ」とは解釈せず、自分のことが好きだから関わってくるのだ、と考えたそうです。
なんというポジティブシンキング!
私なら許せないけどなあ。
不良の意図や自覚がどうであれ、行為が「いじめ」ならいじめでしょう。
ですから、私はここでこう勘ぐりました。
実は蛭子能収が「人と繋がりたくない」としているのは、本当は繋がりたいのに、うまく他人にアプローチできない不器用さから、つながれないことについて自分なりの自己正当化の理屈をつけているだけなのかもしれない。
そもそも『ひとりぼっちを笑うな』というタイトルに、そんな感じがあらわれていませんか。
つながらないことを積極的に主張するというより、つながれないことの言い訳のようなニュアンスですよね。
自己主張が嫌いでそのような控えめな書き方になったのかもしれませんが、もし私が同じテーマで書くとしたら、『ひとりぼっちがそんなに怖いのか?』という、もっと世間に対して挑発的なタイトルにしていたかもしれません。
人とつながらない理由というのは、曖昧なつながり方は嫌だという自分の意思があるからか、もしくは、繋がりたい気持ちはやまやまだけど、つながれないイタイ人なのか、そのどちらかではないでしょうか。
蛭子さんは、ホントのところどうなんでしょう。
本当につながることを拒絶する人なら、テレビやマンガのような人気仕事なんかできないと思うんですが……。