小沢昭一こころのふるさと、蒲田(女塚)の今
小沢昭一といえば、俳優であり庶民文化研究家でもあります。とりわけ「こころのふるさと」として、幼少期を過ごした東京大田区蒲田(女塚)への思いが強く、これまでも書籍、雑誌、放送媒体などで蒲田を語っています。今日は小沢昭一が残した、昭和一桁当時の女塚(おなづか)と今の西蒲田を照合していきます。(今回も敬称略)先日、かつての松竹蒲田撮影所の跡地にある文化施設「アプリコ」などで、第2回蒲田映画祭(シネパラ蒲田)が開催されたことを書きました。

そこでは、展示や名画上映会とともに、ご当地俳優・小沢昭一を語る、中学時代の同級生・加藤武(文学座代表)のスペシャルトークショーがありました。

小沢昭一を紹介するGoogle検索画面
小沢昭一といえば、俳優として映画、舞台、ドラマで活躍したほか、庶民文化・演芸研究家としても書籍を上梓。中年の悲哀漂うサラリーマンを主人公にして、時事問題や日常生活を“口演”した『小沢昭一の小沢昭一的こころ』(1973年~2012年、TBSラジオ)は長寿番組でした。
このブログでもしばしば取り上げるクレージー映画の、『日本一の裏切り男』(1968年)では戦後のドサクサにおける中国人の屋台の雑炊屋を演じ、森繁久彌の社長シリーズの『社長学ABC』(1970年)では、やはり大田区出身で中学時代の同級生であるフランキー堺の後釜として台湾のバイヤー役も演じました。

『社長学ABC』より
今回の加藤武(文学座代表)のスペシャルトークショーで、「資料」として配布されたのは、「蒲田少年、小沢昭一こころのふるさと」というB4サイズの印刷物でした。

クリックで拡大
小沢昭一が、今の西蒲田、当時の女塚といわれるところに住んでいた頃の「思い出の地図」を印刷したものです。
そこには、実家の小沢写真館、松竹映画『突貫小僧』(小津安二郎監督)のロケ地となった相生尋常小学校、小沢昭一少年を殴ったいじめっ子の住む染物屋(笑)。生前から「僕が死んだら魂がいく」というほど大切な思い出である女塚神社、日本初の映画女優、川田芳子の自宅などが、当時の区画道路とともに“復刻”されいます。
で、私は今、それらがどうなったのかを確認に行ってきました。

いわゆる女塚地域の西蒲田を知らないわけではありませんが、「当時の区画道路」ですから、今の道路とは違うため、ちょっと苦労しました。
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女塚という名の由来は、美しくお金のある女性の墓があるということらしいのですが、現在は蒲田の西側だから西蒲田、という味も素っ気もない住所になってしまいました。
女塚出身の有名人は、羽田孜元総理が生まれたところです。林寛子が後に出てくる相生小学校の出身です。女優の手塚理美も蒲田の出身で、お子さんが女塚にある某保育園に入園していたという話もあります。
最寄り駅はJR蒲田駅西口です。

この北西部には日本工科大学と日本工学院専門学校があります。

地図の2番です。

小沢昭一が亡くなったら魂がいくと言っていたらしいのですが、お寺ならともかく、神社が「魂」を受け入れるのでしょうか。
小沢昭一が相生尋常小学校と説明しているところです。林寛子の母校です。

小沢昭一は中学は私立の麻布ですが、小学校はここに通ったのだと思います。私は『突貫小僧』という映画を見ていませんが、学校の周囲がどううつっているのか興味があります。
小沢昭一が「省線京浜線」(現京浜東北線)の西口から出ていた道路を女塚通りと書いています。
現在の女塚通りは、そこから少し離れた工学院通りと呼ばれているところがその名称を引き継いでおり、小沢昭一の指している通りにあったとされる「第一薬局」は、現在ダイチ薬局という看板になっています。

現在の「女塚通り」である「工学院通り」

かつての「第一薬局」の場所には「ダイチ薬局」が
小沢昭一の書いた地図と現在の地図を照合して、ここではないか、と思われるところです。

ここも両隣も、とくにそれを示す碑も解説板もありません。
日本映画史上に名前を残す大物のはずですが、こちらも碑も解説板もなく、韓国食品店の入ったビルが建っていました。

小沢昭一の言う「女塚通り」は、相生通り(現多摩堤通り)を過ぎると「ダイチ薬局」以降は大城通りという名前がついています。

大城通りには、小沢昭一少年を殴ったいじめっ子の住んでいた染物屋の跡地などもあります。が、画像の掲載はやめておきましょう。元いじめっ子の場所として紹介されたら今住んでいる方が気持ち悪いでしょうから。
……ということで、小沢昭一にしろ川田芳子にしろ、折角大田区から輩出した有名人なのですから、なんか記念碑を残してもいいんじゃないかなという気がしました。

そこでは、展示や名画上映会とともに、ご当地俳優・小沢昭一を語る、中学時代の同級生・加藤武(文学座代表)のスペシャルトークショーがありました。

小沢昭一を紹介するGoogle検索画面
小沢昭一といえば、俳優として映画、舞台、ドラマで活躍したほか、庶民文化・演芸研究家としても書籍を上梓。中年の悲哀漂うサラリーマンを主人公にして、時事問題や日常生活を“口演”した『小沢昭一の小沢昭一的こころ』(1973年~2012年、TBSラジオ)は長寿番組でした。
このブログでもしばしば取り上げるクレージー映画の、『日本一の裏切り男』(1968年)では戦後のドサクサにおける中国人の屋台の雑炊屋を演じ、森繁久彌の社長シリーズの『社長学ABC』(1970年)では、やはり大田区出身で中学時代の同級生であるフランキー堺の後釜として台湾のバイヤー役も演じました。

『社長学ABC』より
今回の加藤武(文学座代表)のスペシャルトークショーで、「資料」として配布されたのは、「蒲田少年、小沢昭一こころのふるさと」というB4サイズの印刷物でした。

クリックで拡大
小沢昭一が、今の西蒲田、当時の女塚といわれるところに住んでいた頃の「思い出の地図」を印刷したものです。
そこには、実家の小沢写真館、松竹映画『突貫小僧』(小津安二郎監督)のロケ地となった相生尋常小学校、小沢昭一少年を殴ったいじめっ子の住む染物屋(笑)。生前から「僕が死んだら魂がいく」というほど大切な思い出である女塚神社、日本初の映画女優、川田芳子の自宅などが、当時の区画道路とともに“復刻”されいます。
で、私は今、それらがどうなったのかを確認に行ってきました。

いわゆる女塚地域の西蒲田を知らないわけではありませんが、「当時の区画道路」ですから、今の道路とは違うため、ちょっと苦労しました。
女塚の町を歩く
女塚という名の由来は、美しくお金のある女性の墓があるということらしいのですが、現在は蒲田の西側だから西蒲田、という味も素っ気もない住所になってしまいました。
女塚出身の有名人は、羽田孜元総理が生まれたところです。林寛子が後に出てくる相生小学校の出身です。女優の手塚理美も蒲田の出身で、お子さんが女塚にある某保育園に入園していたという話もあります。
最寄り駅はJR蒲田駅西口です。

この北西部には日本工科大学と日本工学院専門学校があります。

女塚神社
地図の2番です。

小沢昭一が亡くなったら魂がいくと言っていたらしいのですが、お寺ならともかく、神社が「魂」を受け入れるのでしょうか。
相生小学校
小沢昭一が相生尋常小学校と説明しているところです。林寛子の母校です。

小沢昭一は中学は私立の麻布ですが、小学校はここに通ったのだと思います。私は『突貫小僧』という映画を見ていませんが、学校の周囲がどううつっているのか興味があります。
女塚通り
小沢昭一が「省線京浜線」(現京浜東北線)の西口から出ていた道路を女塚通りと書いています。
現在の女塚通りは、そこから少し離れた工学院通りと呼ばれているところがその名称を引き継いでおり、小沢昭一の指している通りにあったとされる「第一薬局」は、現在ダイチ薬局という看板になっています。

現在の「女塚通り」である「工学院通り」

かつての「第一薬局」の場所には「ダイチ薬局」が
小沢昭一の家「小沢写真館」があったところ
小沢昭一の書いた地図と現在の地図を照合して、ここではないか、と思われるところです。

ここも両隣も、とくにそれを示す碑も解説板もありません。
川田芳子の自宅があったところ
日本映画史上に名前を残す大物のはずですが、こちらも碑も解説板もなく、韓国食品店の入ったビルが建っていました。

大城通り
小沢昭一の言う「女塚通り」は、相生通り(現多摩堤通り)を過ぎると「ダイチ薬局」以降は大城通りという名前がついています。

大城通りには、小沢昭一少年を殴ったいじめっ子の住んでいた染物屋の跡地などもあります。が、画像の掲載はやめておきましょう。元いじめっ子の場所として紹介されたら今住んでいる方が気持ち悪いでしょうから。
……ということで、小沢昭一にしろ川田芳子にしろ、折角大田区から輩出した有名人なのですから、なんか記念碑を残してもいいんじゃないかなという気がしました。