笠原良三、1960年代の明るく楽しい東宝昭和喜劇を支えた脚本家

笠原良三(かさはらりょうぞう、1912年1月19日~2002年6月22日)といえば、私がよくご紹介している東宝昭和喜劇の脚本を担当された方です。今日は笠原良三さんの祥月命日です。過去の作品を改めて振り返ってみたいとおもいます。

脚本家や監督には「得意分野」がありますが、笠原良三脚本といえば、1960年代の東宝昭和喜劇です。

初恋トコシャン息子(1952)でデビュー後、1950年代だけで40本書いています。
私はリアルタイムでは見ていませんが、お姐ちゃんシリーズ。インパクトありました。

何度も見直したのが『大番』(1957年)です。

獅子文六が、実在の人物をモデルに週刊朝日に連載した、青春小説の映画化です。
モデルは、合同証券(エイチ・エス証券の前身)社長の佐藤和三郎氏といわれています。
四国・宇和島の農村に生まれた赤羽丑之助(加東大介)通称ギューちゃんが、東京の兜町に出てきて、株の売買や取引をする相場師として成功する話です。
内縁の女性・おまきさん(淡島千景)や、適材適所でアドバイスをしてくれる友人・新どん(仲代達矢)らの支援、そして地元宇和の人々励ましなどで、失敗してもそのままくじけずに再起する場面に力点を置いています。
たんなる立身出世話ではない、泥臭い展開が面白くて何度も見ました。
その原因の一人が、地元資産家令嬢・可奈子役の原節子。
主人公を翻弄する「女の毒」が描かれていて、その点も興味深いと思いました。
ちなみに、『大番』は何度もドラマ化されていて、たとえばフジテレビ版(1962年10月3日~1963年4月24日)は渥美清の出世作といわれています。
私が見たのはNHK版(1970年09月28日~1970年10月16日、銀河テレビ小説)で、ギューちゃんが左とん平、新どんが松山英太郎でした。
これもやはり、大抜擢だった左とん平の出世作と言っていいとおもいます。
できれば左とん平の追悼番組として流してほしかったのですが、たぶんビデオが残っていないんでしょうね。
粋な表現の数々
1960年代は、社長シリーズとクレージー映画、若大将シリーズなど、東宝だけで65本を執筆されています。
私のFB友達である息子さんも、当時のポスターを紹介されています。

私は作品全体の魅力もさることながら、社長シリーズにおける、登場人物の台詞が勉強になりました。
その当時のトレンドであったり、格調高い定型的表現であったりと、諧謔的な“大人の会話”なのです。
ちょこちょこっとメモしたところから、ほんの一部をご紹介しますと……
・浅い川を見せるんですな……「浅い川なら膝までまくり~」という歌に合わせて芸者が着物の裾をまくっていくお色気踊りから、色仕掛けの接待を生真面目な三船敏郎がそう皮肉った(『サラリーマン忠臣蔵』1960年)

・鼻毛を読む……女性が自分に惚れ抜いている男性を見抜いてもてあそぶたとえ(『サラリーマン忠臣蔵』1960年)
・イトヘンやなし、カネへんやなし……森繁社長の会社の産業を推理する新珠三千代芸者。当時、朝鮮戦争特需で金属、繊維関係の景気が良かったため「かねへん景気、いとへん景気」といわれた(『社長道中記』1961年)
・お友だちと銀ブラしたついでに……銀座をブラブラと散歩すること(『続・社長道中記』1961年)
・粋(すい)をきかせる……男女の事情を察してその場を外す(『続・社長道中記』1961年)
・とんでもハップン……はっぷんはhappon(起こる)の意味。とんでもないことを起こしては困るという意味でトニー谷が流行らせた(『社長紳士録』1964年)
・三すくみ……三者が牽制しあって身動きが取れない状態(『社長道中記』1961年)
・駑馬(どば)に鞭打ち……大したことのない能力ですが、それを超えるような成果を出すべく、と小林桂樹が森繁久彌から社長を禅譲されるときの挨拶(『社長学ABC』1970年)
・驥尾(きび)に付して……小林桂樹が森繁久彌に社長就任の祝いをやろうと言われて立派な森繁会長の就任祝いのあとでやらせていただきますと謙遜(『続・社長学ABC』1970年)
私が普段、こうした記事を書くときも、笠原良三さんの脚本の名ゼリフから“粋な表現”を拝借することが少なくありません。
そのため、私の文章は、「昭和の薫り」とよくいわれます(笑)
でもそれならお伺いしますが、平成に入って、気に入って使いたくなるような言葉がどれだけ登場したのか。
若い娘が、LINEで使うような省略語なんかわからないし、使いたくもないですよ。
それはともかくとして、CSやBSで、機会があれば、ぜひ笠原良三脚本作品、ご覧になってください。

北上次郎選「昭和エンターテインメント叢書」(2)大番 上 (小学館文庫)

社長漫遊記
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この記事へのコメント
>諧謔的な“大人の会話”なのです。
このあたりの素晴らしいセンスが平成にまで受け継がれていれば、現在はもっと豊かな大人の世界になっていたのでしょうが、どこかで断絶があったのでしょうね。いっぷく様がおっしゃるように、「平成の言語」・・・お粗末、薄っぺら、醜悪、ゼロセンスなど、何拍子も悪い意味で揃っています。「言葉」はわたしのライフワークですので、この点についても様々な形で言及していくつもりですが、例えば今現在でも、NHKを含めてテレビでは朝から晩まで、「半端ないって」の連呼。正気の沙汰とは思えません。
わたしの母は幸いなことに、入院はさほど多くないです。若い頃のことははっきりしませんが、50歳くらいからであれば、2回か3回ですね。本人にも家族にも「体が弱い」という自覚があるので、早め早めの対応をしているのが一つのポイントかもしれません。ただ、当人の医学的知識はゼロに等しく(笑)、しかももともと人の言ったことを変な方向に受け取るタイプでして、普通に説明しても理解してくれてないこともあるなど、なかなか難しい部分はあります。だから受診の際は必ず同行するようにしていますが、ネガティブになることもあるとはいえ、性格は明るいのでそこは家族も助かっています。
>入院時に知り合った人とは親しくしないようにすると決めたようです。
わたしの母もそういうところはありますね。二週間ほど入院していた時に、相部屋の母より年下の女性と仲良く話ししていたんです。その人は居酒屋を経営していて、「退院した後も仲良くしようねえ」的なことを言っていたので、退院後に「一度、行ってみる?」と母に尋ねたのですが、「いや、行かん」とのことでした(笑)。その理由について尋ねはしなかったのですが、母なりのこだわりはいろいろありますね。意地が詰んでいるとでも言いましょうか、一見ほがらかでおもしろいのですが、つい人様を無視して出しゃばったりするところもあるので、反発を買うこともあります。
母が今でも恨み(笑)に思っているのが、もう亡くなった人ですが、県内では短歌の大御所的なご婦人で、母によればとにかく「いじめられた」と、当時はノイローゼのようになっていました。まあ母にも非はあったのでしょうが、高知の習い事とかグループ活動は閉鎖性が非常に強く、しかも「先生」が絶対者のように振舞うので、少しでも「先生」の逆鱗に触れたら、陰湿ないじめが待っているというところだと思います。
病院は、受診の付き添いで待合に座っているだけでも、様々な人生を見ることになりますね。表現は少々悪いですが、痩せ細って枯れ木のようになってらっしゃるご高齢の方とかを見ると、(若い頃はどんなだったろう)と想像してしまいますし、若い方が冴えない表情で待合に座っておれば、人生の無情さを感じてしまいます。そしてもちろん、誰しもそうなる可能性は常にあると再認識し、日々の大切さをあらためて心に言い聞かせることもよくあります。
>生きとし生けるものは生きることにいつも前向きでありたいと思っています。
同感です。とりわけ、「メディアビジネス」の文脈では絶対に生死を語りたくないですね。
そう言えば、ビッグバン・ベイダーが亡くなりましたね。バンバン・ビガロやゲーリー・オブライトらよりは長く生きたとはいえ、やはりプロレスラーは短命が目立ちます。サンダー・ザボーは60歳で亡くなっておりますね。例えば、最近の星野仙一や衣笠祥雄らの死を見ると、(「強さ」って何なのだろうな)と考えてしまいます。プロレスラーも同様で、特に「プロレス」という言葉の意味が曖昧になっている現在だからこそ、「ポリスマン」的な雰囲気にはより惹かれてしまいますね。 RUKO
足利市には行ってきたばかりですがその地出身の人だったんですね。
当たるのは食中毒ではなく別のものが良いですね (^^)
記事に惹かれて拝見しましたが、長女が森繁社長に「土地買って」とおねだりするのに「多摩川の先で坪6万円で50坪」みたいなことを言っていたのが印象に残りました。
「とんでもハップン」とはそういうことでしたか。高校のときの先生が、「飛んでも8分、歩いて15分」て言ってたのがずっと謎だったもので…
喜劇と言えば「東宝」でしたものね~
ポスターの「総天然色」が懐かしいですが
高校が上野の私でしたので上野東宝も懐かしいです。
三人群像劇のルーツかな。