高次脳機能障害の歌手、一ノ瀬たけしさんからわかったこと

高次脳機能障害になってしまった18歳の少年が、歌手として社会復帰した有名な話があります。その復帰までの経緯を知り、高次脳機能障害だけでなく、一般にも通じる2つの学ぶべき点があると気づいたので、このブログ記事にまとめてみます。

前回の、高次脳機能障害の元競輪選手で今はパン屋さん・多以良泉巳(たいらいずみ)さんの時と同様に、橋本圭司医師(はしもとクリニック経堂)の主宰する、子どもの高次脳機能障害グループ学習会に参加したときの話です。

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やはり、話題は「高次脳機能障害児者の就労」ですが、高次脳機能障害であるなしにかかわらず、人の生き方について示唆を与えてくれるお話だとおもいました。
橋本圭司医師の話を要約してご紹介します。

一ノ瀬たけしさんの公式サイトより
この人は熊本の人で、一ノ瀬たけしさん。
18歳のときに、心臓発作で倒れて30分心臓が止まっていたの。
心臓が止まって血液が行かなくなった低酸素脳症。
さっき言ったことも覚えられないし、歩けない。
3ヶ月だったかな。
ずっと精神病院に入院していて。
で、親がこのままじゃだめだって。
なんとか家に連れて帰ってきた。
ところが、好きなことがあってね。
歌が好きだって。
でもカラオケに連れてったら、最初はひどかったですよ。
声がほとんどでなくて、外で急に泣き出すし、暴れるし。
もう大変だったんだけど、でもやっぱりね、制限するんじゃなくて、本人がやりたいって言ったことに耳を傾けて、それを実現してあげる。
毎日カラオケボックス行って、家族で歌うのよ。
そうすると自信がつくんですね。
で、また次につながっていく。
そしたら。なんとデビューしましてね。
これ『たけしのアンビリバボー』で紹介されましたが、歌はうまいとかじゃないんですよ。
心に響く。

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もうね、いっかい聞いてみてください。
ほんと生で聴くと涙があふれてくる。
ちょっとよくわかんないんだけど、なんかもう素晴らしい。
歌の価値は「上手さ」だけではない
ご本人の公式サイトのプロフィールには、『僕の道しるべ』がデビュー曲と記載されているのに、すぐ下に、「たけしの夢は歌手になることです」とあります。
これはおそらく、現在はメジャーデビューではなく、日本レコード協会に入会していないレーベルでリリースしたインディーズシンガーという意味でしょう。
インディーズからメジャーデビューすることはあり得ない話ではないので、ぜひ実現していただきたいとおもいます。
橋本圭司医師は、「制限するんじゃなくて、本人がやりたいって言ったことに耳を傾けて、それを実現してあげる」と仰ってますが、これもやはり、高次脳機能障害であるなしにかかわらず、親の子育て、社員教育など、人を育てることにおいてすべてにあてはまる話ではないかとおもいます。
たとえば、お子さんの三日坊主を叱ったことありませんか。
やりたいことが変わる「飽きっぽい」ことを咎めませんか。
「やりたいこと」を探している最中なのに、それを制するようなことを言ったら、お子さんは萎縮して、もう「やりたい」ことを胸を張って言えなくなっているかもしれません。
「声がほとんどでなくて、外で急に泣き出すし、暴れる」一ノ瀬たけしさんのデビューまで寄り添ったご家族のように、「三日坊主」も「飽きっぽい」のも、人生の道順と思って寄り添いたいですね。
「歌はうまいとかじゃないんですよ。心に響く。生で聴くと涙があふれてくる。 」というのもいい話です。
聞かせる歌、心に響く歌ってなんだろうって、私はよく考えるんです。
たとえば以前ご紹介した、『星影の小径』という歌は、小畑実に始まって、何人もの人がカヴァーして、今やSUITEVOICEのような芸術的な美しいコーラスにまで発展しています。

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でもやはり、ネイティブな「アイラヴュー」と流暢に歌うよりも、“コメヘレ英語”で「アイラブユー」と歌う小畑実の素朴さに、私は今も心惹かれるのです。
※コメヘレ英語=come hereをコメヘレと覚える英語の発音

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歌の価値は、歌手の生き様や時代背景、聴く者の価値観など様々な要素によるのでしょうね。
一ノ瀬たけしさんの今後が楽しみです。

生きている奇跡―高次脳機能障碍と向き合いながら

輝いて生きる
この記事へのコメント
「やりたいこと」というものは、それが見当外れや勘違いのものでない限り、できる限り挑戦していくべきですよね。一ノ瀬たけしさんの場合はそれが歌だったわけですね。「やりたいことをやっている」という状態は心身のあらゆる要素に好影響を与え、ひいては生命力そのものを向上させる可能性もある。そんな気がしております。
>とにかく根拠は二の次で感動をしたい人がいる
そうなんですよね。つまり『24時間テレビ』は巷に氾濫する「泣ける」が前提の安易な映画やドラマ、小説などと、意識としては地続きのように感じるのです。わたしは「泣かすことを前提として、泣かせるノウハウを駆使して作られたお涙頂戴」と「本物の感動の結果として涙がこみ上げて来るもの」とはまったく異なると思っています。もちろん両者に重なる部分は時としてありますが、後者には厳格に研磨されたダイヤモンドのような美しさがあるものですが、前者は特に作る側に(まあ大衆はこのくらいのもので喜んで泣いてくれるだろう)という侮りがあり、またそれにまんまと乗せられる人たちの思考停止と鈍過ぎる感性があるのが普通です。『24時間テレビ』に感じるのは、「前者」と同様の雰囲気なのですね。
どうにもわたしにとって理解不能なのが、「芸能人のマラソン、トライアスロン」を見て「感動する、泣ける」という感覚の視聴者なのですね。そして現に完走寸前がとても視聴率がいいということ。そうした話を目にすると、わたしは自分が異星に迷い込んでいるような気分になります。しかもマラソン(トライアスロン)やる人は、なかなかの高額ギャラだというような情報もありますよね。なのに、この前のお記事でいっぷく様もご指摘されていたように、「テレビ的に見栄えのする障碍者を見つける」ことから番組の企画が成り立っていくという現実。まあ「涙活」なんていう不気味な言葉ができるくらいですから、『24時間テレビ』もそのようなものとして消費されているわけで、「寄附金が集まるからいいじゃないか」といった文脈とは別の次元で、「このような番組でいいのか」という点は厳しく問われるべきだと思います。
わたし自身、「自然」も大好きだし(その割にはインドアの趣味が多いですが 笑)、近所の多くあった田んぼが次々と埋め立てられ、マンションだのナンダのばかり増えている状態には憤りを感じますが、それが「自然保護」や「動物愛護」の運動になると、どうも素直に賛同できないものばかりなのですね。「絶滅危惧種を守ろう」とかいう運動には逆に人間の傲慢さが臭ってくる気がします。「種の存続を人間の手で」とか、しかし太古の昔に恐竜なんか勝手にほぼ絶滅しちゃったわけで、それらはもちろん人間の環境汚染や乱獲とは一切関係なかったわけですよね。「なるべき守ろう」という意識はもちろんいいですが、同時に「どんな種でも、絶滅するときにはする」くらいの諦念も持っている方が健康的に感じます。「何が何でも、この種を死守!」なんていうのは、(他にやることないのか?)と感じてしまいます。
>阿修羅原が、なんかもう少し暴れたい、こんなんじゃないんだ
このあたりの、試合の中でのレスラー間の緊張感が、たとえビッグマッチでなくても出てくるのが昭和プロレスの大きな愉しみの一つではないかと、特に今の新日なんかと比べると感じます。それは当時観戦していて意識していたわけではないのですが、今のプロレスが大技のオンパレード化してしまっているのを目にしてしまうと、昭和はとても「人間」が浮き彫りになっている感があるのですね。
スティーブ・オルソノスキーって、ぜんぜん覚えてませんでした(笑)。思えば、ロディ・パイパーもテッド・デビアスも地味な中堅レスラーというタイプだったと思うのですが、米国マットでは二人ともキャラクターの設定によって大スターになってますよね。このあたりはおもしろいところです。ただ二人とももともとプロレスラーとしての地力があったので、上手く行かされた感も強いですね。それとパイパーなんかも「トーク」で人気を博した部分が大きいらしく、そうなると日本での人気と大きな差ができてしまうのは致し方ありません。スーパースター・ビリー・グラハムは見た目が派手だったので日本でもスターレスラーとして扱われましたが、「トーク」は出る幕なかったですよね。
マッチメイクに関してはどうなのでしょう。もう80年代ということで、タイトルの価値に対する迷いとか、やや投げやりな部分が出てきていたのでしょうか。子どもの頃はわたしもアジアタッグ選手権など、それなりに愉しんでおりました。 RUKO
一言一言、丁寧に歌われる姿が印象的です。
芸能界は厳しいので、上手く行くと良いですね。
話題だけではなく、本当に成功してほしいですね。
言葉では簡単ですが、実践は容易ではありません。
歌声を聴いてみたいな~。