瀬戸内寂聴さん「不倫がいけないなんて誰が言ったんでしょうね」

瀬戸内寂聴さんが、今度は「不倫がいけないなんて誰が言ったんでしょうね」発言で物議を醸していますね。「恋なんて降ってくるものなんですよ。そんな事言ったら一生、男も女も1人でいるしかなくなりますよ」と居直る発言がネットで炎上していますが、これはたんなる炎上狙いや失言のたぐいではなく、リバタリアニズムといわれる流行思想のひとつである、と指摘する向きもあります。

瀬戸内寂聴さんについて、以前、このブログでは2つの記事を書きました。
ちょっと振り返ってみます。
⇒瀬戸内寂聴さん「4歳の娘を捨てた不倫駆け落ち」が叩かれている
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この記事の要旨は、以下のとおりです。
1.瀬戸内寂聴という人の生き方に対する、ネット民の批判的評価自体は否定しない
2.ただし、作家は自分の体験を盛って語るところがあるから、どこまで本当かはわからない
3.瀬戸内寂聴さんに熱中する人々は、瀬戸内寂聴さんを無謬と思っているわけではなく、松田聖子人気のようなものではないか
次がこれです。
⇒瀬戸内寂聴氏の「殺したがるばかども」発言、日弁連が謝罪
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この記事の要旨は、以下のとおりです。
1.瀬戸内寂聴さんが死刑制度を批判。「殺したがるばかどもと戦ってください」と発言したことについて、発言した催し主の日弁連は「被害者への配慮が足りなかった」と謝罪したが、本人が謝罪しないのはおかしい
2.小池百合子都知事候補が、顔のあざを隠すための化粧を「厚化粧」とののしったが、その謝罪もしていない。
3.小保方晴子氏との雑誌対談で「あなたがされたことは、いじめ」としているが、科学者としての態度がどうだったかは全く触れていない
4.瀬戸内寂聴信者からは「人間だから間違う」との擁護論もあるが、その分野の専門家ならともかく、門外漢の無根拠で無責任な感情論は、その真偽以前に発言がメディアに載ること自体不見識である
ということです。
そして今回は、「不倫は悪くない」論です。
幼子を捨てて愛人のもとへ走った経験者は、さすが言うことが違うわ。#瀬戸内寂聴https://t.co/9XDTh5G8tQ
— タッキナルディ (@INXS_Good_Bad) 2018年11月26日
寂庵(京都市右京区)なる自宅兼寺で、秘書の瀬尾まなほさんとの対談集『命の限り、笑って生きたい』という書籍のPR会見を行ったときのことです。
「人生での幸せは人を愛すること」
「不倫がいけないなんて誰が言ったんでしょうね」
「恋なんて降ってくるものなんですよ。そんな事言ったら一生、男も女も1人でいるしかなくなりますよ」
「これは尼さんの瀬戸内寂聴じゃなく、小説家の瀬戸内寂聴が言ってる事です」
と、語ったとのことです。
たしかに、人間の心というのは、法律で縛れるものではありませんし、異性を好きになること自体にいい悪いはありません。
ただし、婚姻制度とのつじつまが合わなくなりますから、不倫が発覚すれば、不貞行為として、当事者間では夫権侵害、妻権利侵害、そして相手に対しても損害賠償や慰謝料の対象になることぐらい、誰でも知っているでしょう。
つまり、交際自体が民法上違法であり、もちろん離婚理由にもなります。
違法である以上、不倫は「いけないこと」なのです。
何より、配偶者や子の精神的な傷は、お金では解決できないですよね。
思うに、尼を名乗るくせに、この人には「心」がないんですね。
「小説家の瀬戸内寂聴が言ってる」というのもおかしい。
尼と作家を使い分けているようですが、同一人格でそれは通らないでしょう。
たしかに作家は、犯罪や不倫などを、倫理観というプレッシャーに負けずに書ききる強い精神力が必要ですが、それはあくまで執筆の話であり、作家自身が社会観・人間観としてそのような生き方を喧伝すべし、ということではありません。
作家が不倫の小説を書くことと、自分の意見として「不倫の何が悪いんだ」と主張することは別でしょ?
小説家さえ名乗れば、何を言っても許されるということでもないでしょう。
ところが、信者だけでなく、一般の中立な(?)人たちも、なぜかこの方に対しては寛容な気がしますね。
そういう発言の人がいてもいいだろう。いちいち批判していたら息が詰まる
なんてね。
どうしてなんでしょう。
もちろん、言論はその質にかかわらず多様であることは大切でありますが、それはそれとして、良し悪しの論評はきちんとすべきではありませんか。
なぜなら、瀬戸内寂聴さんの発言は、すでに一部ではリバタリアニズム(libertarianism)を疑われているからです。
本当にそうなのかの言及ぐらい、行ってもいいのではないでしょうか。
リバタリアニズムとは“心の新自由主義”
リバタリアニズムというのは、他者の身体や正当に所有された物質を侵害しない限り、つまり刑法上の問題にならない限り、各人が望む全ての行動は自由として尊重されるべきと主張する思想潮流です。
倫理や道徳など、数値化されない「心の問題」による規制などは全く考慮されません。
この経済版、政治版は「新自由主義」といわれるものです。
いうなれば、リバタリアニズムは、「心の新自由主義」といったところでしょうか。
この潮流の“寵児”といえば、堀江貴文氏を真っ先に連想できるでしょう。
社会上の不整備や欠陥は、市場原理の価値観に過ぎないから、批判ではなく利用したほうが利口だ、というのが堀江貴文氏の基本的な考え方です。
これは結局、自分の欲望が強欲だろうが横車だろうが、この世はやりたいことやったもんがちという価値観に行き着きます。
「金儲け」か「不倫」かの違いで、要は堀江貴文氏と瀬戸内寂聴氏は世界観として軌を一にしている、というわけです。
その二人が、なぜか昨今、何を言ってもメディアで取り沙汰されますね。
たしかに、マスコミが、その思想潮流を広めたがっていると勘ぐることすらできます。
自由と自分勝手の線引きは?
瀬戸内寂聴氏に限らず、住職に生き方の話を聞こうという人は、人生に迷い、自己肯定感に乏しい人々です。
そういう人は、得てしてリバタリアニズムにひっかかりやすく、「ありのままの自分で『自由』に生きるのだ」と聞いて、今度は極端に自分を肯定しだすのです。
自己正当化としては最強ですよね。ありのまま。
自分が絶対ですから、批判はすべて中傷扱い。
そう考えると、決して捨て置ける言論ではないですね。
自由と自分勝手。
その線引きが難しい面もあろうかと思いますが、こういう主張が大手を振ってまかり通っている以上、きちんと考えなければならない時期に来ているのかもしれません。

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この記事へのコメント
瀬戸内寂聴の小説はおもしろくなさそうだから読んでおりません。エッセイはちょいちょい読んでおりました。わたしが、小説を読まずにエッセイだけ読んでいたという点では曽野綾子も同様ですが、内容は曽野綾子の方がずっとおもしろいと思います(自分の意見と反対の部分も含めてです)。瀬戸内寂聴のエッセイは一切心に響いてきたことがなく、時に馬鹿馬鹿しいと感じました。宗教家になってからの作品もそうですし、自らの男性遍歴から「仏門へ入る」までを描いたエッセイなども、強烈なナルシシズムを感じ、気持ちのいいものではありませんでした。非常に単純な言い方をすれば、(わたし、こんなにモテたのよ)と叫んでいると感じたのですね。なので、今夜のお記事も全面的に同感なのです。わたし自身、もちろん「瀬戸内寂聴の言動100%否定」とまでは言いませんが、この人の言動の大部分は疑問だらけだと思っております。
>思うに、尼を名乗るくせに、この人には「心」がないんですね。
同感です。この人の書いているものを読めばすぐ分かりますが、どのような考え方も実に大雑把ですし、本当に宗教者を名乗るのであれば、世の中に無数存在する「配偶者や子の精神的な傷」を癒すことに注力すべきであり、不倫を謳歌している人間を讃えてどうするのかということです。そうした人たちのことは眼中にないのでしょうね。なにせ高齢で体調もよろしくないのにわざわざ小保方を救いに行くくらいの目立ちたがり屋ですから。
不倫自体はあり得ることだし、人間世界から無くなりはしないし、文学や映画の題材としては今後も欠かせないことだと思いますが、それはあくまで「不倫はいけないこと」という前提において題材としておもしろいわけで、極端に言えば、殺人事件やあらゆる犯罪が文学や映画の題材として欠かせないと同様です。現実世界で、「不倫OK」とは一切ならないですよね。
それと実に根本的なお話で、しかもかなり微妙なテーマなのですが、実はわたしは日本の仏教者の多くにもともとかなりの疑問を持っております。美食太りした生臭坊主がスポーツカー乗り回している・・・といったこともそうですし、日本における仏教思想そのものに関しても、どうも納得できない部分が多々あるのです。
>要は堀江貴文氏と瀬戸内寂聴氏は世界観として軌を一にしている
こうして並べていただくと、(なるほど)と感じます。リバタリアニズムの問題も含め、警戒を持って観察していかねばなりませんね。
リンクくださった長州力の引退情報、拝読させていただきました。
>「ロープがつかみづらくなってきた。」
これ、笑っちゃいますよね。こういうレベルになってしまった人たちがまだリングへ上がり、安くはない入場料を取っているわけですね。しかしどう考えても、「リング上でファンを愉しませる」以前の、「リング上でプロレスをする最低限の肉体条件」も満たしてないですよね。さらに問題は、そうした興行にけっこうなお金を払い、時間を割いて観戦に行く「優し過ぎるプロレスファン」の存在だとも感じます。 RUKO
無職で旅人だった頃、他人から見れば自由なんだけど本人大変よ(笑)
小説の中の登場人物が言う
台詞ならフムフムて思うけど
自分勝手な発言とつても
お元気な姿テレビで
拝見しますが自由な心で
ありたいんでしょうね
他の尼さんもそう発言されるのでしょうか?仏門を叩いて修行された方は?てお悩み相談とかされていたイメージ強いのですが
言ったもんの勝ちなんでしょうか
個人にはそんな話をしても
公で容認される発言はダメかもです。社会的秩序が乱れちゃう
と思う。
>思うに、尼を名乗るくせに、この人には「心」がないんですね。
不倫をすることによって、必ず傷つく人が出てしまうことになるわけですから、私も、まったくその通りだと思います。
この方を見ていて思うのは、この方の場合は「説いている」のではなく、「好きに自分の意見を押し付けている」ように感じてしまいます。
>自由と自分勝手の線引きは?
これは私の考えになってしまうのですが、「自由」とは誰にも迷惑をかけることのない奔放さのことで、「自分勝手」とは誰かに迷惑をかけてしまうという違いで、そこが線引きをされるところではないかと思います。
言論の自由は法で守られていますが、それも他者(自分以外)を傷つけない範囲です。(名誉棄損や侮辱も法律にある)
日本の現行法では不倫はいけないものと定義されています。
昔「不倫は文化」というバカなことを言った人もいたような気がします。
その二番煎じでしょうか。
だとしたら作家としても才能の枯渇なのかもしれません。
思います、なぜあのような発言が出るのかな?
でも、不倫に対しての考えは他人に語ってはいけない部分だと思います。
それでも全てを否定するつもりもありませんし、反対に一生の人生で1人の人しか好きにならないという人がいたなら、それは余程の幸運な相手と出会った人か、あるいは余程のニブチンだと思います。他からの受け売りですが(^^;
ただ、それを行動に移すかどうかは人それぞれだと思いますが(^^)
このくだりは、ものすごい極論だと思います。
この人は奔放に生きた女性ですから・・
何か自分を勘違いしているような気もします・・・。
仏の世界の人は偉い人、という勘違いがあるのかも。
もちろんご本人も。