堀ちえみの“母娘絶縁”を報じる女性週刊誌の居丈高報道どう思う

堀ちえみの母娘“絶縁7年”を報じたのは、4月23日更新の『女性自身』。「手紙も送り返されました」という母親の取材を記事にしながら、絶縁を「ボタンの掛け違い」と“中立”に結論づけています。しかし、当事者にとってはこれほど迷惑な記事はないように思います。

いきなりですが、日本人て、綺麗事でしかない無責任な調停論が好きですよね。
たとえば、勝負事があると、「どっちも負けるな」とか、「応援」する人がいるじゃないですか。
じゃあ、引き分ければいいのかよ、何のための勝負だよ、と思いませんか。
SMAPの独立問題が騒がれていた時、「みんなにとっていい結果になって欲しい」と、いい人ぶって無責任にコメントしている人がいたから、「具体的に何が問題でどうすればいいと思いますか」と聞いても何も出てこない。
だったら、答えが出ててから物言えよ、と思うんですが、ハナから答えを出す気もない。
でも、無難に“いっちょかみ”しておきたい。
それって、第三者のトラブルを利用して自分がいい人であることをアピールしたいだけで、当事者に対して失礼じゃないんでしょうか。
国民がそういう、無責任な不可知論者になったのは、マスコミ報道の影響も大きいと思います。
マスコミにもしばしば、そういう表現がありますね。
「どっちも負けるな」はまだいいほうで、「どっちも悪いところは反省して」というような上から目線の調停をする不遜な文章があるのですが、じゃあなにがどう悪いのかというと、何の根拠も示していない。
無難に、どっちもどっちにしておこうという、無責任というより、罪作りな書き方には、当事者でなくても腹が立ちます。
ということで、前置きが長くなりましたが、今日読んでいて腹が立ったのは、堀ちえみの記事です。
堀ちえみが、自分の母親や妹と7年連絡をとっていないということを、堀ちえみの母親に取材。
さらに、堀ちえみの夫に、それをたずねて、夫はそれを否定。
その上で、
食い違う両者の主張ーー。ただ堀も実母も会うことを拒んでいないのであれば、その“ボタンの掛け違い”を戻すこともきっとできるはずだ。
と、エラソーに記事は結んでいます。
https://t.co/NSZHxC0tN2 #女性自身 @jisinjp
— あかねひろこ@相互フォロー待望 (@msakanehiro) 2019年4月23日
“ボタンの掛け違い”という言い方はやめろ!
というのが、私が記事を読んで思ったことです。
それはすなわち、記事は中立ヅラした裁判官のつもりで、「『どっちもどっち』だから、いきさつを水に流せ」と居丈高に叱り飛ばしているようなもので、いったいこの記者に何がわかるのか、と思います。
親や姉妹と絶縁するには、それ相当のゆずれない理由があるはずです。
その理由を知らないで、何を根拠に意見できるのだ、とまず思います。
そして、母親の言うとおりなら、堀ちえみのほうが会いたくないわけですが、つまり堀ちえみからすれば、母親や妹に、会いたくなくなることをされたか言われたか、したのでしょう。
なのに、“ボタンの掛け違い”なんていわれたら、
※ボタンの掛け違い=対処の方法を誤り、そのことが原因であとから不都合が生じたり、双方の間で食い違いが生じたりすること。(デジタル大辞泉より)
堀ちえみが“被害者”なのに、「対処の方法を誤」った“落ち度”を責められているわけです。
そもそも堀ちえみと母妹の問題なのに、他人である夫の言い分を対等にとりあげているのもピンぼけです。
いずれにしても、堀ちえみはがん治療を、ふたつも経験した直後なのに、『女性自身』の記者はいったい何を書いているんだろうと思いますね。
芸能ニュースに対するスタンス
私は、有名人が私生活に関心を持たれることを否定しません。
あのドラマに出て、あんなに素敵な演技をした人は、どんな人なんだろう、というヒューマンインタレストは、むしろ人として自然な関心だと思います。
ただ、その生き様について、こうあるべきだ、などと居丈高に論評するつもりはありません。
そんなこと、事情をマスコミ報道でしか知らない第三者が判断できることではないからです。
何より、生き方はその人の価値観ですから、第三者が批判したり命じたり出来ることではありません。
たとえば、何度か書きましたが、離婚して以来、別れた相手に引き取られた子どもに会わない、という例があったとします。
そうすると世間はすぐ、「親子なんだから会うべきだ」と無責任にジコマンの「善意」を押し付けたり批判したりする。
しかし、当事者は、会うことによるデメリットも考えて、最終的に会わないという判断をしていることもあり得るので、第三者がお説教するようなことではないのです。
かりに、そのデメリットが現実のものとなったとして、「善意」を押し付けてきた人たちは責任が取れるのでしょうか。
自分の人生は自分が決める。
他者は、その人の心をのぞいたつもりになってわかったようなことを言うな、というのが私の考えです。
全称命題や断言は慎め
そして私は、先のSMAP問題に限らず、誰にでもよくとってもらえそうな物言いをする八方美人を軽蔑、というより全く信用していないので、そういう人とは公私とも関わりたくないですね。
といっても、その場その場で無難な話をしてはならない、と言っているわけではありません。
「無難」なら、もっと別の結論や言葉の使い方があるでしょう。
私が思うのは、少なくとも、安易に、「みんな」とか「ぜんぶ」とか「絶対」とか、全称命題や両成敗や断言は慎むことです。
これは「無難」だからというより、立場や利益が折り合えないから争いになっていることについて、うわべの抽象的な物言いで、ともに顔が立つなんて言うことはありえないからです。
事情がわからないことを勝手に論評してドヤ顔する悪癖はなおしましょう。
いい加減な仲裁をしたがることで、いい人ぶるつもりが、逆に信用を失うかもしれません。
見る人は見ています。

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この記事へのコメント
問題解決意欲ゼロで、無難だからとか。
自分の体面だけですね。
コメントなど 気を使って書いてるつもりが
相手を傷つける事もあるので
考えながら書く様にしてますが なにせ無知なもので
言葉足らずが多くなります
もっと気をつけないといけないと自覚する様に
心がけます
>「みんなにとっていい結果になって欲しい」
あ~、これはテレビキャスターもよく結びで使うフレーズですね。コメンテーター的な人に短時間しゃべらせた後、キャスターがこのフレーズで締めるパターンよく見かけます。こういうのばっかりだからテレビも見る気しなくなるんですよね。
>「どっちも悪いところは反省して」
ありますね~、このフレーズも。わたしもメディアの紋切り型思考停止フレーズで大嫌いなのはとても多く頭に浮かびます。少し前ピエール瀧の件でTBSのキャスターがいかにも「怒っている」という臭い表情を作りながら、「裏切られた思いです」とか強い口調で言ってたのなんかもすごく気持ち悪かったです。確かに多くの国民がこうしたメディアの態度に接しているうちに、(こんなのでいいんだ。こんなのがいいんだ)と自然に思い込むようになっていますね。
>“ボタンの掛け違い”
結局こうしたフレーズを使うのは最初から、「物事の真実や是非」などはどうでもいいのでしょうね。中身を検証するつもりなどはなからなくて、ネタになるトラブルの上面だけなでておいて、ボタンの掛け違いという出鱈目な言葉で締め括るという、ほとんど書式のようになっていますね。
>事情をマスコミ報道でしか知らない第三者
ですよね。わたしの場合はそもそも、プライバシーに関する記事は「事実か否か分からない」というスタンスで読みます。だから事実かどうか分からないことについてどうこう論評するつもりもありません。もちろんわたしも人間ですから、もともと気に入らない有名人が何か起こした時は、(やっぱりこいつはこんな奴だ。消えてしまえ!)と「心で」思います。けれどそれを意見として公にはしないですね。それは単なるわたしの「感情論」に過ぎないわけですから、公にするべきでないと理解しておりますので。
>、「みんな」とか「ぜんぶ」とか「絶対」とか、全称命題や両成敗や断言は慎む
これはもう、わたしも常々感じていることです。本当に軽々に、「みんな」とか「日本人全員が」とか使う人、多いですよね。目にしたり耳にしたりするだけで、非常に精神衛生上よくないのですが、
・・・
>医療機関が多くの専門家によって構成されお世話になるのだということを知りました。
確かにそうですね。そしてそれはたまに病院へ行くくらいではわたしもまったく想像がつくことではありませんでした。医療制度関係についてもいろいろややこしいことがありますからね。医学的なことはまだけっこう分かるのですが、医療制度関係の知らなかった情報量がこのところ多くて大変です。 RUKO
知ることはなく、知りたいとも思わず雲上人として憧れていました。
自分も親とは年に1度くらいしか会ってなかったですが、最近のある事がキッカケで以前よりは行くようになったかな。
私は反対に、so-netブログでも、重い話や告白を記事にされている方がいらっしゃいますが、それに対して全くコメントが書けないことが多いです。
「第三者のトラブルを利用して自分がいい人であることをアピールしたいだけ」のどうしようもない無責任人間が、以外と多くいるのにも腹が立ちます。
それをいいように捉えて書くライターは、心がないのかなと思います。