お賽銭について『貧者の一灯』から考える

お正月、三が日の3日目ですが、初詣は行かれましたか。神社と寺院どちらに行くか、なんてネットの記事が毎年賑わいますが、今年はどちらが多くなるでしょうね。ところで、つかぬことを伺いますが、お賽銭の金額はどうやって決められましたか。お賽銭というのはもちろん、参拝者が神社や寺院で拝むときに、賽銭箱に投入するお金のことです。
お正月は、お年玉やお賽銭などが急上昇キーワードになりますね。
ネットを見ていてもお賽銭を話題にするページにしばしばお目にかかります。
要するに、いくらならいいか、という話です。
やっぱり、「気は心」ということでしょうか。
お賽銭の価値はその金額の多寡ではない
以前、
⇒お賽銭、初詣でいくら入れたらいいの?
という記事で、「東京スポーツ」(2012年12月26日付)の連載「ユウキロックの使える!節約術!!」から、関連の内容を引用しました。
「おさい銭に1万円」も入れる必要はない、「45円」で十分だ、と書かれています。
まあ、1万円だろうが45円だろうが、ご本人の気持ちが大事だと思います。
仏教の説話で、有名な『貧者の一灯』をご紹介します。
寄進の価値は、その金額の多寡ではない、という話です。
【布施】長者の万灯よりも貧者の一灯|他人の役に立てない人はいない https://t.co/1G6G71bFnX @YouTubeより
— 戦後史の激動 (@blogsengoshi) December 27, 2023
難陀という貧しい女性は、街の人々がお釈迦様に灯火の布施をするのを見て、自分もなんとかしたいと思いましたが、やっとこさ一灯用意できただけでした。
しかし、金持ちがメンツや虚栄で寄進した万灯が油が尽きて消えても、難陀の一灯だけは消えませんでした。
要するに、金持ちは灯数にこだわったため、一灯ごとの油は粗悪なものですませたのに比べて、難陀は一灯しか用意できなくても、その一灯にはちゃんとした油が入ったものだった、ということです。
お釈迦様は、貧者なりの心のこもったわずかの寄進のほうが功徳が大きいことのあらわれだ。形式よりも真心が大切だと言った、という話です。
お賽銭は、金額よりも、神仏に寄り添う気持ちの表現です。
結論の出ない方は、財布の中に入っているお金の一部を握りしめ、何も考えず「エイヤーっ」と寄進したらいいかもしれませんね。
ということで、今年は昨年同様、Kindleの文学作品のご紹介とともに、今回のような説話などもご紹介できればとや思っています。
この記事へのコメント
新年早々に大震災と航空機事故、波乱に満ちた幕開けになりましたが
この後は何事もなく平穏な年になるように願っています、
今年も宜しくお願い致します
最近は神社もお寺も行ってないです・・・!
でも、お賽銭はなぜか”ご縁”と言うことで
5円玉でした (^-^)!
お寺や神社が必要経費としているだけなのでいくらでも構わないと思っています
数年前に岡山のとある有名な神社で若い女性の方がお守りの上にお金を乗せて出すとお金は汚いのでお守りの上に乗せるなと叱られていました
そんな汚い物なら受け取るなと思いますよね
それ以後、神社から足が遠のいています
今年もよろしくお願い致します
気持ちだと思っているのでこれで良いと思ってます。
今年もよろしくお願いいたします。
今年も宜しくお願いいたします。
と言ってみたり(笑)。でかい神社は参拝客が多いので
お札は賽銭箱前までいかないと投入できないと・・・