お経は誰のためにあげるのか

2週間ぶりに「仏教間違いあるある話」です。今日のテーマは「お経は誰のためにあげるものか」。ふだん、自分は信仰なんて無い、宗教は気持ち悪いなんて言ってる人でも、いざ身近な人の葬儀になると、宗教的儀式に則り、僧侶を呼んで読経してもらいますね。ではその人は誰のため、何のために読経をお願いするのでしょうか。

先日、私が参加しているFacebookのあるグループで、自由民主党の裏金問題について、怒っている投稿がありました。
それはいいのですが、問題はその怒り方で、「該当議員全員、出家だ」と書かれていました。
それって、仏門をコバカにしていますよね。
刑務所じゃないんだからさ、悪人の吹き溜まりみたいに言うことはないでしょう。
とまあ、この通りではありませんが、そんな趣旨のことを書くと、こう返してきました。
「馬鹿にはしていない。葬儀や法事のときには、仏様のためにお坊さんに読経していただいている」
いやいや、ここでまた、二重の間違い。
まず、「仏様」というのは「亡くなった人」のことではなく、修行して「悟った人」のことです。
刑事ドラマでは、「ガイシャ」を「ホトケさん」とか言ってますけど、あれ間違いですから。
それと、お経を亡くなった人のためにあげるという考え方。
故人の供養という気持ちはわかるんですけどね。
素朴な疑問として、亡くなった人が、どうやってそれを聞くんでしょうか。
葬儀や法事の参加者自身が聞き入るもの
お経というのは、釈迦牟尼(お釈迦様)の教えや、お釈迦様ならこう考えたであろうということをまとめたものです。これを一切経というんですけどね。
お経を上げる、これを読経と言いますが、その目的は、お釈迦様の教えを再び学び、お経の功徳やご利益をいただいて感謝することです。
つまり、生きている人(法事や葬儀の出席者)に教えを説くため、というのが大前提なんです。
枕経と言って、亡くなった方が安らかに旅立つことを願い、納棺までに枕元で読経することがありますが、それも、亡くなった方だけではなく、故人の最期を見守る家族や友人に安心感をもたらす意味も込められていますから、やはり遺族・関係者のため、という意味が含まれています。
供養という気持ちを否定はしませんが、お経は亡くなった人に聞かせておけば良い、という了見ではなく、葬儀や法事の参加者自身が、仏門を知るために聞き入るものだということです。
お経は宗派によって採用するものが違います。
有名なお経には、たとえば以下のようなものがあります。
般若心経(はんにゃしんぎょう)……仏教の教えの中でも特に知られており、多くの宗派で読まれています。般若心経は「空(くう)」の思想を説いたお経で、すべての存在は変化し続け、実態のない「空」という存在の在り方をしていると説いています。
阿弥陀経(あみだきょう)……浄土教(浄土宗や浄土真宗)で読まれ、極楽浄土への往き方や極楽浄土の様子を説いています。
法華経(ほけきょう)……正式名は妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)。天台宗や日蓮宗で読経します。法華経は「今を生きることが最も大切である」という教えや、すべての人が成仏できるという平等の思想を説いています。
華厳経(けごんきょう)……すべてのものは互いに関連しながらも、邪魔することなく共存しているという諸法無我についての教えが中心です。
浄土真宗では、正信偈(しょうしんげ)を読む場合がありますが、
正信念仏偈(正信偈)草譜 浄土真宗本願寺派(西本願寺)sutra・Buddhist・chant・jananese ・okyou・お経・金蔵寺https://t.co/RJVNwb0XCG
— 水族館ガール (@suizokukanga_ru) June 3, 2023
あれはお経ではなく、親鸞の書き物です。浄土真宗の教えを表す重要な文として、日々の実践において大切にされています。
日本のお経は漢字の原文
日本の葬儀や法事で読まれる大乗仏教のお経は、主に漢訳された経典です。
これらの経典は、主にインドの言語であるパーリ語とサンスクリット語で書かれ、その後中国を経由して日本に伝わり、漢字で記録されました。
日本においては、これらの経典がさらに日本語に翻訳されることもありますが、多くの場合、漢字の原文で読まれることが一般的です。
参列者に渡される経本には、カタカナ表記になっている場合がほとんどで、読経時にはこのカタカナ表記に従って唱えられます。また、自宅で読経する勤行などでは、和訳された経本を用いる場合もあります。
いずれにしても、読経を聞く機会があったら、ただ座って目を閉じて、時間が経つのを待つのではなく、経本を見ながらお経を目で追うと、有意義な時を過ごせると思います。
ご自宅では、仏壇に向かって勤行などされていますか。

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この記事へのコメント
人はタヒんだら成仏して仏様になると
何かで読んだのですが、それは違うのでしょうか?
だから、亡くなった人の事をホトケと呼ぶのだとか。
宗教は普通生きてる人の為の物ですが、
日本の仏教は葬式仏教と呼ばれ、
亡くなった人に為にも唱えているのだとか。
確かに亡くなった人に唱えても聞こえませんよね^^;
仏壇はありますが、南無妙法蓮華経しか唱えていません
究極これしかないような気がします
生きている者にとってはお経は必要不可欠でしょう
だったんですか、知りませんでしたた^^;
>読経は生きている人に教えを説くため
というのも目から鱗です。有難うございました。
>故人を偲ぶ際には、その人の信仰や宗派の教えに沿った言葉を選ぶ
そうですね。釈迦仏教、浄土教、密教、禅宗と、いろいろ違いはありますね。
>シんだら全員仏になるのではないのか
人は誰でも内部に仏性をもっているけれど、やはり誰でも持つ煩悩がそれを汚している、というのが(大乗)仏教の考え方なのです。
それを如来蔵思想というのですが、ですから「シんだら全員仏」というのは、可能性として嘘ではないけれど、無条件にそう断定してしまうと間違い、ということなのです。
そもそも、万人が自動的に仏になれる普遍的客観的なものなら、仏教という宗教(仏道修行)自体も要らないという理屈になります。
「成仏」は、宗派や経典によって条件が異なりますが、浄土教以外は、修行を積んで悟りを得ることとされています。「冥福を祈ります」というのは、「無事成仏してください」という意味であり、それはすなわち、亡くなってすぐはまだ成仏していないということにほかなりません。
浄土教のみ、専修念仏で誰もが阿弥陀如来に掬い取られるということになっていますが、「往生決定」には念仏信仰が求められます。まさに「信じるものが救われる」ということですね。
るともとらえることもできたり(笑)。そう考えると間違って
いるけど、故人のためのお経の方がいい様な気も。