仏教研究者も解説していた!「みんな違って、みんないい」批判

先週、「みんな違って、みんないい」という言葉について書きました。重中度障碍者に対して禁句であることを含め、障害のあるなしにかかわらず、相手の身になって控えるべき物言いはあるということを書いたのですが、その関連で、いつもの佐々木閑先生の動画をご紹介します。(画像はYouTubeの動画講義より)SSブログで、新しい記事を更新すると、私はXにポストしてお知らせしています。
そこで、SSプログユーザー以外の方々の、感想をいただくことがあります。
みんな違ってみんないい。これ、障碍者には禁句って知ってました? いや、障害の有無関係なく誰であってもことと次第によっては。理由は、ちょっと考えればわかるよね。わかんない人は ⇒ https://t.co/5EgUrocf3J #みんな違ってみんないい #障害者 pic.twitter.com/qGfsFt5Wvs
— 戦後史の激動 (@blogsengoshi) May 25, 2024
この先週の記事については、反論としてこういう内容のものがありました。
1.障碍者に対する禁句なんかない。禁句をつくるのは差別の裏返し
2.「いい」と言っているだけで、「悪い」ものは挙げていないのだから別に問題ないだろう
先週の繰り返しですが、「いい」かどうかを判断するのは、あくまで障碍者やその保護者の側です。
「いい」という表現自体が適切かどうかは、関連動画として、釈迦仏教研究の佐々木閑教授(花園大学)のコロナ禍YouTube授業に、「比較」の話があったので、それを今回ご紹介します。
「いい」の本音は、比較ありきの嫌味な自己愛
『阿含経』といわれる釈迦仏教のお経の中の、『相応部(サンユッタニカーヤ)1集篇第2編第2章』より。
私はあなたと同等だ
あなたより優れている
あなたより劣っている
という思いを持つ者は そのことで言い争いをする
これら3種の思いに心が乱されない者には、同等もなければ優越もない
という一句について動画では解説しています。
3つの言葉は全部、比較です。
自分と他者と比較して、そこに上下関係をつけようと考える我々の心があるというのです。
「私とあなたは同等だ」って、コレなにか良いことを言ってるように思うかもしれませんが、そうじゃないんです。
上下優劣をつけようとして、たまたま互角と思っただけですから。
上下優劣をつけようとした了見自体がダメなんです。
一番下の「劣っている」ことを認めるのは、謙虚に見えますか。
これも、実は自分にメリットがあるからなんです。
人は自分が一番かわいいんだから、だてや酔狂で、自分を劣ってるなんて言わないでしょう。
たとえば、ある面で劣っていることを認めることで、できない理由付けをする。
「あいつの方が仕事ができる」「だから自分は努力しても無駄だ(努力しなくてもいい)」とかね。
もしくは、それを認める自分てステキ、という自己愛です。
佐々木先生はいいます。
本当に優れているかどうか。そんなことは分からないんです。
人と人を比較して比べるなんていうことは実際はできないんです。
なぜならば、人というのはさまざまな要素が集まってさまざまな側面を持って存在している非常に不複雑な複合体です。
その複合体同士をどこで比較するのか。全部を一緒に比較するのすべての要素を一挙に比較するなんてことは絶対できないわけであって、ある特定の側面しか我々は比較できないんです。
だから自分が他者よりも優れているであろうと思われる側面だけをわざわざとってきて、そこに焦点を当てて「どうだ、私の方が上だろう」というのが、これがあなたより優れているという言葉の意味です。
人と人を比較して比べるなんていうことは実際はできないんです。
なぜならば、人というのはさまざまな要素が集まってさまざまな側面を持って存在している非常に不複雑な複合体です。
その複合体同士をどこで比較するのか。全部を一緒に比較するのすべての要素を一挙に比較するなんてことは絶対できないわけであって、ある特定の側面しか我々は比較できないんです。
だから自分が他者よりも優れているであろうと思われる側面だけをわざわざとってきて、そこに焦点を当てて「どうだ、私の方が上だろう」というのが、これがあなたより優れているという言葉の意味です。
要するに、人間全体を比較して優劣をつけることは不可能だということです。
それなのに、「比較の表現」をするのは、 自分に何らかのメリットを見出して他者をダシに使う不遜な物言いなのです。
みんな違って、だから何?
話は戻ります。
(障害があっても)「みんな違って、みんないい」
これは、冒頭の3つの比較のうちの、「私はあなたと同等だ」になるのかな。
そんなこと、二重に差し出がましい嫌味な言い方です。
言ってる方は、「障害は個性だ」なんて、苦労知らずのキレイ事を言いたいらしいですが、障害は障害です。
障害があれば、それは生活するのに不都合に決まっているでしょう。
無理にキレイ事でまとめるのは、逆にその障害と向き合っていない無責任で不誠実なものいいです。
しかも、そのハンデがあるからと言って、人間としてその障碍者が劣っているということにはならない。
ですから、わざわざ障害の部分にフォーカスして、「いい」なんて論評する必要はないのです。
障碍者でなくても、容姿に難ありとか、体育が苦手とか、かわった意見だとか、足が短いとか、そういうことに対して、いちいち「みんな違って……」なんて「なぐさめる」必要はないのです。
そこが違うだけで、トータルとしての人間のあり方に優劣などつけられないのですから。
なのに言ってるやつはきっと、心のなかでは比較して見下すことでしか他者との関係性を構築できない、うさんくさい自己愛人間です。
仏教徒でなくても、このぐらいの話は得心していただけるのではないかと思いますが、いかがでしょう。
得心いただけた方は、ぜひ、参考になさってください。
……と、またXにポストすると、再反論はあるかな。

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この記事へのコメント
「私とあなたは同等だ」
こんな事言われたら、「はあ? 何様?」
と思ってしまいますね。
6月の第一土日は町内の夏祭り・・・
朝から太鼓の音が聞こえています!
私が思うに、
私は人よりも優れていると思っている内はだめですね。
本当に優れている人って後ろを向かない。
そんな余裕は無い。
もっと優れている人しか見ない。
そして何度も涙して努力、挫折の繰り返しで進んでいくしかない・・・
それでも人の上に立つのは容易ではない・・・・
これが人それぞれと思う所以です。
将棋の天才藤井聡太八冠王の大先生、
記者に聞かれました。
「あなたは富士山で言えばどのくらいのところにいますか?」
答え。即答。
「未だ森の中です」
実際にエジソンが言ったのではないらしいですが、
「天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの努力」
また私が宗教を語る力量はまるで無いですが、
「南無妙法蓮華経と唱えれば叶わざる物無し」
または、
「鰯の頭も信心から」
理論理屈よりも先ず信じることが宗教。。。
色んな角度から「人間」を論じるのですが、
やっぱり武者小路実篤、
「人間は不完全な生き物」かも。
今日は大変失礼いたしました。
すいませんでした。
マジョリティがそんなに偉いのか?と思います。
私は低身長ゆえによく見知らぬ子どもにジロジロ見られますが、それってもう動物の本能なんでしょうね。異質なものを排除するという・・・
人間その物が完璧ではないんですから少しの違いで優劣を付けることに抵抗を感じます
そんな無駄なことは辞めたいです
鳥から見れば「人間って飛べないんだね、ダメだね」って事かもしれません
以前聞いた話ですが
人間は自然にできたにしては良くできている
神が造られたにしてはお粗末。。。
自然と一緒になりますね。