新田義貞など『征夷大将軍になり損ねた男たち』(二木謙一著、ウェッジ)

新田義貞など『征夷大将軍になり損ねた男たち』(二木謙一著、ウェッジ)

新田義貞などをとりあげた『征夷大将軍になり損ねた男たち トップの座を逃した人物に学ぶ教訓の日本史』(二木謙一著、ウェッジ)をご紹介します。武家の最高位「征夷大将軍」の座を逃した歴史人物に学びます。現代人にも役立つ歴史の教訓です。(文中敬称略)

本書『征夷大将軍になり損ねた男たち トップの座を逃した人物に学ぶ教訓の日本史』には、鎌倉、室町、江戸時代の「惜しい人物」がたくさん登場します。

【主な登場人物】
◎源頼朝に警戒され源氏第三勢力に甘んじた「武田信義」
◎梶原景時から将軍に推されたが釈明もせずに逐電した「武田有義」
◎四代将軍への野心を疑われるも拒んだ「鎌倉法印貞暁」
◎比企氏と運命をともにさせられた幻の鎌倉三代将軍「一幡」
◎打倒北条氏を目論む三浦氏の甘言に乗り実朝殺害した「公暁」
◎二度も将軍に擁されるも北条氏打倒を果たせず自害した「栄実」
◎頼家の血統を根絶やしにする北条氏の犠牲になった「禅暁」
◎北条時政が将軍に擁するも殺害された頼朝の猶子「平賀朝雅」
◎源氏の血統を主張して実朝後の将軍を狙って挙兵した「阿野時元」
◎将軍位を求めずとも強力な権力で執権として君臨した「北条義時」
◎後鳥羽上皇に突如、誅殺された摂津源氏の嫡流「源頼茂」
◎義時の継室・伊賀の方が将軍にしようとした娘婿「一条実雅」
◎反幕府の後鳥羽上皇が四代将軍にさせなかった親王「頼仁親王」
ほか室町時代、江戸時代の人物も登場

「征夷大将軍」というのは、本来は臨時にできた軍の指揮組織で、陣営に幕を張った場所を幕府と言いました。

それが、源頼朝以来、征夷大将軍が最高権力者となり、「幕府」は政庁を指す言葉になりました。

つまり、本書は、天下を取りそこねた武将たちの話、ということです。

今回は、その中で新田義貞(正安3年(1301年)-延元3年/建武5年閏7月2日(1338年8月17日))をご紹介します。

新田義貞は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将で、本名は源義貞(みなもと の よしさだ)。

かつて、源義家の長男と次男が、母親が違うことでいがみ合い、長男が新田、次男が足利を名乗るようになったといいます。

つまり、新田と足利は、どちらも先祖を源とする親類ですが、そのいがみ合いが子孫の新田義貞にとっては命取りになりました。

足利尊氏との宿命の対決に敗れる


1301年頃、新田義貞は新田義房の子として生まれました。

初期の活動: 若い頃から武勇に優れ、鎌倉幕府に仕えていました。

1331年、後醍醐天皇の倒幕運動(元弘の乱)に参加し、その後、新田義貞は主要な武将として活躍しました。

1333年の元弘の乱で鎌倉幕府を打倒するための主要な戦闘に参加し、鎌倉の陥落に大きく貢献しました。

後醍醐天皇が建武の新政を開始した際、新田義貞はその中心的な役割を果たし、新政府の重要な官職を務めました。

しかし、新田義貞は鎌倉を攻略した後も、足利高氏(後の北朝初代将軍足利尊氏)をライバル視し続けました。

義貞は、鎌倉幕府を滅ぼした後も、同族の足利高氏との対立を続けました。

北朝に足利尊氏、南朝側には、新田義貞や楠木正成などがおり、新田義貞は足利尊氏と宿命の対決の末に1338年の箱根・竹ノ下の戦いで敗れ、自害に追い込まれました。

1336年、新田義貞に勝利した足利尊氏が室町幕府を開いたことで、室町時代が始まりました。

尊氏は京都の室町に幕府を置き、その後約270年間にわたって幕府が支配しました。

新田義貞については、群馬県にある新田神社に祀られています。


新田神社は、義貞の忠勇を称えるために建立されました。

新田父子は神様として神社に祀られることとなった


この戦いのあおりで、新田義貞の次男・新田義興も亡くなりました。

新田陣営の由良兵庫助・新左衛門の兄弟は、敵軍にも攻め込まれ打つ手がなくなった時、舳先にたって刀を逆手に取り直して互いに自分の首を切り落としたといわれています。

壮絶な死を遂げた由良兵庫助の死体が、多摩川の矢口渡から野川の合流部にあるデルタ地帯の島に流れ着き、地元の村人達は災いを恐れて兵庫助をその島に供養。

これが、二子玉川にある兵庫島公園の由来です。


地元の人でないとわかりくいですが、生首は、多摩川の下流から上流に逆流してきたわけです。

さぞや無念だったのだろうと、新田義興は神様として祀られることになったのが、東京大田区の新田神社です。

神社といえば御神木、新田神社(東京・大田区)にある樹齢700年のケヤキの木
ケヤキのご神木が人気の神社です。

参詣者は、木に触るというより、寄っかかってますね。


新田神社は、破魔矢(はまや)発祥の地ともいわれています。破魔矢は日本の伝統的な矢で、厄除けや魔除けのための縁起物です。

特に新年や節分の時期に神社で授与されることが多く、家の中に飾ることで、悪い運気や災厄を防ぐとされています。

みなさんの地域には、武将が祀られている神社はありますか。

征夷大将軍になり損ねた男たち トップの座を逃した人物に学ぶ教訓の日本史 - 二木謙一
征夷大将軍になり損ねた男たち トップの座を逃した人物に学ぶ教訓の日本史 - 二木謙一

この記事へのコメント

2024年10月10日 23:43
誠意大将軍は、先日逮捕されましたな。
2024年10月11日 00:40
祟られないよう祭るパターンですね
2024年10月11日 00:53
破魔矢を飾るというのは、そういう意味があったんですね。
2024年10月11日 03:36
彼が足利氏に勝利していたら歴史は変わっていたのでしょうか。
けど、長く持つ感じもしませんね。
2024年10月11日 06:52
日本史、疎いな~わたくし。
近くにそう言う神社はないと思います。
2024年10月11日 07:47
昔、手首のも使ったことがあります。
いろんな機種が並んでいましたが、使っていた系統の機種を選びました。
2024年10月11日 08:13
おはようございます!
ようやくエアコン無しの生活が来ました!!
寒暖差が激しいですから体調管理してくださいね・・・(^-^)
2024年10月11日 10:40
破魔矢は平安時代の貴族の間でやっていてそこから広まったと思っていました。
新田が発祥だったとは・・・。
2024年10月11日 11:52
逆流してきたのかぁ、そりゃ怖いわな。
2024年10月11日 12:15
破魔矢、前の家に住んでた頃は、お正月に毎年購入していました
あれ、どうして、今の家では買わなくなったのかな・・・
氏神様には初詣に行ってるのに。。
2024年10月11日 14:00
御殿場に住んでいた頃、父と足柄駅近くの「竹之下古戦場跡」を訪れました。当時の写真が残っていますが、恐ろしく田舎で、大きな石碑がポツンと建っていたのが思い出されます。
2024年10月11日 18:23
こんばんは。
祟りを恐れて神様として祀ったといえば菅原道真、平将門、崇徳天皇 が思い浮かびますが新田父子もそうだったのですね。
2024年10月14日 16:44
みなさん、コメントありがとうございます。

> 先日逮捕されました
天下はとれませんでしたね。

> 祟られないよう祭るパターン
よくありますね。

> 破魔矢を飾るというのは、そういう意味
いまや破魔矢がある家のほうが少ないと思いますが。

> 彼が足利氏に勝利していたら
歴史は「もしも◯◯だったら」という想像が楽しいですね。

> 近くにそう言う神社はない
神社の御祭神を調べてみるのも面白いですよ。

> 使っていた系統の機種
我が家も以前は腕を筒の中にいれるタイプのものを使っていました。

> 寒暖差が激しいですから
夜はもう冬用の布団を出しました。日中は半袖ですね。

> 新田が発祥だったとは
平賀源内の発案らしいですね。

> 逆流してきた
これ、相当な距離ですよね。ゾッとします。

> 今の家では買わなくなった
置き場所がないのでは。

> 大きな石碑がポツンと建っていた
もう誰も気にかけていなさそうですね。

> 新田父子もそうだった
謀殺された新田義興の祟りは、その相手を水死させたり狂死させたりしたそうですから凄まじいですね。