旧統一協会解散命令で改めて振り返る明覚寺霊視商法詐欺事件

旧統一協会解散命令で改めて振り返る明覚寺霊視商法詐欺事件

東京地裁が旧統一協会に解散命令を出したことがニュースとなりました。報道では、過去に解散命令を受けた宗教法人として明覚寺が挙げられていますが、この機会に改めて明覚寺霊視商法詐欺事件を振り返ってみたいと思います。



解散命令が出された宗教団体としては、旧統一協会が3団体目とされ、過去に命令が出されたオウム真理教と明覚寺の名前も報道に登場しています。


オウム真理教やその事件については「聞いたこともない」という人はほとんどいないでしょうが、明覚寺については意外と知られていないかもしれません。

明覚寺霊視商法詐欺事件の概要


明覚寺の教祖である西川義俊は、大阪府立大学経済学部を卒業後、製薬会社の営業マンとして働いていましたが、脱サラに失敗して宗教ビジネスを思いつきます。

1987年に宗教法人「大覚寺」を設立し、霊視商法を展開しました。訪問販売を通じて人々を勧誘し、「水子の霊が取り付いている」と脅して高額な供養料を要求したのです。供養料は最低でも65万円から数百万円にも及びました。

1992年には休眠状態だった高野山明覚寺を再興し、これを本山として全国各地に系列の寺を次々に開設。霊視商法の拠点は全国に27か所に広がり、供養料として集めた金額は120億円以上に達したと言われています。

1999年7月、明覚寺の最高幹部が和歌山地裁で実刑判決を受けた後、文化庁は解散命令を請求。2002年1月に和歌山地裁は明覚寺に対して解散命令を出しました。この命令は、明覚寺が法令に違反し、公共の福祉を著しく害する行為を行っていたことを根拠としています。

仏教は本来「水子の霊」を認めていない


「水子の霊のたたり」とは何でしょうか。結論から言えば、「水子供養」は仏教の伝統的な教義ではなく、近代日本の文化的背景や社会的ニーズを仏教が受け入れて発展したものです。

仏教の教義においては、「水子の霊が祟る」という考え方はありません。

たびたび書いているように、仏教ではすべての現象が因果関係によって生成・発展・消滅すると考えられています。

神様や霊が存在して人間の営みに関与するという世界観ではなく、「バチが当たる」「タタル」「ゴリヤクがある」といった賞罰の教えは本来ありません。

お釈迦様の時代は、仏教は「性交渉ご法度」の出家者僧団だけのものだったので、出産や堕胎という問題はそもそも想定外でした。

しかし、在家信者でも成仏できるとする大乗仏教の時代になると、出産や堕胎を供養することで親としての心の平安を求められるようになり、それが「水子の霊」と呼ばれるようになりました。

せっかく宿した命を生み育てられなかったという思いに、仏教が寄り添うこと自体は悪いことではありません。

しかし、仏教の世界観には霊による賞罰の概念がないため、「水子」が親に対して何かをする(祟る)という教えはあり得ないのです。供養は親の心の平安を目的としたものであり、霊的な脅威を煽るような商法は仏教の精神に反する許しがたいものです。

仏教も菩薩も現代社会には必要


明覚寺のような事件があると、短絡的な人は「そもそも宗教(仏教)があるからこういう事件が起こる」と言い出すのですが、それは唯物論者の私でも同意できない暴論です。

人が求める宗教心を悪用するから問題なのであって、宗教そのものを否定すれば、人は何をよりどころにすればよいのでしょうか。

科学だけでは、人生に意味を与えたり、人の心に寄り添ったりすることは難しいでしょう。

たとえば、大乗仏教には菩薩という概念があります。

自らの悟りを目指しつつも、他者を救うために努力を惜しまない慈悲深い存在です。

慈悲の象徴である観音菩薩(かんのんぼさつ)や、智慧を司る文殊菩薩(もんじゅぼさつ)などが有名ですが、実はそれらは架空の創造物です。

では、架空だから意味はないのか。いえ、そんなことはありません。それらは「自分もそうありたい」という、人のあり方の象徴としての意味を持つからです。

現実社会に「菩薩」はいませんが、「菩薩のような人」は存在します。

たとえば、毎日、名乗ることもなく道のゴミを掃除したり、公共物の落書きを消したりしている人たちは全国に少なからずいます。その人たちが文化勲章を受けることもなく、どこからも給料をもらっていることもないでしょう。

その人たちが仏教の「菩薩」を意識して行動しているかどうかは別として、ゴミ掃除に限らず「他者を救うために努力」する行為は様々な形で存在し、「菩薩のような人」は静かに社会を支えています。

そうした人たちだけに丸投げするのではなく、私たち一人ひとりが「菩薩のような人」を意識した何らかの実践を行うことで、社会もより良くなり、私たち自身の心も清らかになるでしょう。

菩薩についてより詳しく知りたい方は、平岡聡著『菩薩とはなにか』(春秋社)をご参照ください。

考えるべき問題


宗教の悪用は許されませんが、精神的な支えを求める人間の本質的な欲求も無視できません。私たちは宗教をどのように健全な形で取り入れ、明覚寺のような詐欺から身を守るべきでしょうか?

また、現代社会において「菩薩のような人」になるために、私たち一人ひとりができることは何だと思いますか? 日常生活の中で、どのような小さな実践が可能でしょうか?

宗教と科学、合理性と信仰のバランスをどう取るべきか、皆さんはどのようにお考えですか? ぜひコメント欄でご意見をお聞かせください。

菩薩とはなにか - 平岡 聡
菩薩とはなにか - 平岡 聡

この記事へのコメント

2025年03月27日 13:16
旧。統一教会解散命令やっとでました。
良かった。
2025年03月27日 13:23
こんにちは!
解散命令とは言葉がおかしいですよね・・
この言葉では教団は納得できないのはもっとも。
税制面での優遇措置がなくなるって言う上手い
言葉が欲しいですね~!