石原慎太郎「天罰」発言の深層:信仰、代受苦、公人の責任

東日本を襲った大震災から14年。石原慎太郎氏(当時東京都知事)の口から飛び出した「天罰」という言葉は瞬く間に批判の的となり、撤回を余儀なくされました。公人の言葉の責任、宗教と公共性の境界、そして災害の意味づけについて考えさせられました。

未曾有の大震災に対して、その傷跡が生々しく残る中、石原慎太郎氏(当時東京都知事)の「天罰」発言は、東北の、とくに岩手、宮城、福島の方々は、どう受け止められたでしょうか。
発言の経緯と表面的な批判
石原知事「やっぱり天罰」
— けんさん?? (@ken_san019) March 7, 2025
「津波で我欲洗い落とす」
??野郎 pic.twitter.com/kEfmtZ023U
石原氏は震災後の3月14日、「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と発言しました。
この言葉に対し、都民から抗議と発言の撤回を求める電話やメールが都庁に殺到。
翌15日、石原氏は緊急記者会見で発言を撤回し「深くおわびします」と陳謝しました。
ただ、後に石原氏は真意について、「日本全体が弛緩してきたので1つの戒めだという意味で言った」と説明。関東大震災時に新渡戸稲造らも同様の「天罰論」を唱えたことを根拠に挙げました。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/020100334/
「天罰」発言の論理的矛盾
しかし、石原氏の論理には明らかな飛躍があります。
「社会の弛緩」と「震災」の間に、何ら因果関係は立証されていません。
「ふわふわしている」ことと「関東大震災」は、何のつながりもない別の出来事です。
そもそも、社会が「弛緩している」という評価自体が石原氏の主観に過ぎず、それが震災という罰を受けるべきなのかという論理的根拠はありません。
石原氏の「天罰」発言は、客観的な証拠を欠いた主観的な感想に過ぎないのです。
では、なぜ石原氏はこのような発言をしたのでしょうか。
石原氏の思想的背景に仏教の「代受苦」か
その背景を探る上で、彼の宗教観は無視できません。
石原氏は自ら告白したことはありませんが、霊友会という法華経系の新宗教組織と近かったと言われています。
何より、『新解釈 現代語訳 法華経』(幻冬舎)という解説本を著しています。
大乗仏教には「代受苦」という重要な教えがあります。
これは、菩薩が衆生の苦しみを代わりに引き受けるという慈悲の行為です。
利他の行為として、菩薩のような自己犠牲は成仏につながる、という考え方があります。
仏教学者の田村芳朗氏によると、日蓮宗の開祖である日蓮は、法華経によって、自らの不幸を他者の苦しみの肩代わりと解釈したといいます。
石原氏の「天罰」発言の背景には、この「代受苦」の思想があったと考えられます。
つまり、現代社会の「我欲」の業報は、本来日本人全体が受けるべきだが、東北の方々が代わりに引き受けてくださった、という解釈です。
この視点からすれば、石原氏が釈明する通り、「東北の人が悪いから罰を受けたという意味ではない」ことにはなります。
公人としての責任と言葉の重み
しかし、たとえ石原氏の真意がそうであったとしても、公人、特に東京都知事という立場での発言としては大きな問題がありました。
なぜなら、「我欲」と「震災」を結びつける客観的な根拠はなく、「代受苦」という宗教的解釈は個人の信仰に基づく主観に過ぎないからです。
公人の発言は社会に大きな影響を与えます。
被災した当事者にとって、自分たちの苦しみが「日本人の我欲の報い」と結びつけられることが、さらなる心の傷になるかもしれません。
公的立場にある者の言葉には、特別な責任が伴うのです。
宗教と心の在り方
では、そんな考えを起こさせる仏教は失言の温床だから、なくなればいいと思いますか。
一方で、石原氏の失言は、宗教がどうあるべきかという重要な問題を提起しています。
震災で家族を失った人が、「なぜ、自分の家族が……」という問いに苦しむとき、「それは津波による溺死だ」などと合理的説明を何度されようが、心の慰めにはなりません。
そうじゃないんだ。なぜ、病気でもない、その直前まで元気だった人が、何も悪いことをしていないのに突然そんな災難に飲み込まれなきゃならないんだ。どうしてなんだと……。
そんな時、「代受苦」のような仏教的解釈が、心の支えになり得るかもしれません。
人間が、合理的説明ではどうにもならない事態に追い詰められたとき、何かに救いを求めることは決して恥ずかしいことではないのです。
しかし、それはあくまで個人の内心に限ることであり、公人が公的な場で述べるべきことではありません。
宗教は個人の内面でこそ意味を持つものであり、公共の場での発言には慎重さが求められます。
「天罰」発言を巡る論点
石原慎太郎氏の「天罰」発言を巡る一連の騒動は、私たちに様々な問いを投げかけています。
1. 公人は、自身の宗教観をどこまで公にすべきでしょうか?
2. 災害や苦難に、宗教的な意味を見出すことは個人の救いになるのか、それとも新たな苦しみを生むのでしょうか?
3. 私たちは、他者の苦しみに対して、どのように向き合うべきでしょうか?
石原慎太郎氏の「天罰」発言は、単なる失言として片付けるのではなく、公人の言葉の責任、宗教と公共性の境界、そして災害の意味づけについて深く考えるきっかけとなるのではないでしょうか。
みなさんは、困難な出来事に心が耐えられなくなった時、そこに「意味」を見出すことについて、どのようにお考えでしょうか?
ぜひコメント欄でご意見をお聞かせください。

新・堕落論―我欲と天罰―(新潮新書) - 石原慎太郎
この記事へのコメント
何とも不適切な言葉だと思います、東北の皆さんには。
慎太郎さんは言いたいこと言って逝ってしまいました!
天罰なんてとんでもないです。
自然を大事に思い、大切にする事が良いと思いますが。
どちらかと云うと、逗子中一期同士の裕次郎の活動を支持いたします。