【人生を変える仏教の智慧】「悪因悪果」じゃない?本当は「悪因苦果」と考える理由
「悪いことをすれば、悪い報いが返ってくる」
そんなふうに聞いたことはありませんか?
この考え方は、いわゆる「悪因悪果」という言葉でよく語られます。自己啓発や道徳の話の中でもしばしば登場し、「人生の因果関係」をシンプルに説明する言葉として広まっていますが、しかし、この「悪因悪果」という言い回し、仏教の教えに基づいて考えると、実は少しニュアンスが違うのです。
中村天風氏の「原因結果の法則」とは?
ある日、Facebookで、中村天風氏の「原因結果の法則」に関する投稿を目にしました。
中村天風氏の肩書は、日本の自己啓発講演家、思想家、ヨーガ行者。実業家、大日本帝国陸軍諜報員、玄洋社社員だそうです。つまり、戦中戦前の文化人です。
「中村天風はインドでの生活の中で、東洋哲学やインド哲学に触れ、その思想的背景には仏教があったとされています。」と、AIのGeminiでは紹介しています。
「およそ人生には、人生を厳格に支配している一つの法則がある。それは原因結果の法則である。すなわち、『蒔いた種のとおり花が咲く』という法則なのである。俗にいう善因善果、悪因悪果の法則である。人間の運命の中に地獄を作り、また極楽を作るのも、この法則があるからである。」
つまり、「自分が行ったこと(原因)が、未来にそのまま形を変えて返ってくる(結果)」という因果の法則を説いた言葉です。
これは仏教の教えでいうところの「自業自得」や「因果応報」に通じる考え方で、人生を前向きに生きるための知恵として、多くの人に影響を与えてきました。
しかしながら、この中で使われている「悪因悪果」という表現には、ひっかかることがあります。
仏教は、縁起と言って、物事は原因と結果が、縦横無尽につながっていて成り立っているという考えです。
つまり、「悪いことをしたら悪い結果が返ってくる。その悪い結果が原因で、また悪いことが起こる」ということになります。
ということは、いったん悪いことをしたら、その人の人生はいつまでたっても悪い事の繰り返し、ということになりませんか。
さらにいえば、「いッたん悪いこと」の原因として、その前の悪いことがあります。
親の因果が子に報い、といいますが、親の人生が悪いと、子の人生もずっと悪いものが続くということになります。
毒親に生まれたら、生まれた瞬間に人生罰ゲームになってしまいますね。
実際に、そういう不幸なお子さんもおられます。
でも、そうでない人だっています。
毒親と、どん底の家庭からでも、幸福な人生を送ることはあります。
過去に失敗をおかしても、そこから立ち直ることだっています。
不幸で終わる人と、跳ね返す人は、どこが違うのでしょうか。
実は、仏教は、正しくは、『善因善果、悪因悪果』ではなく『善因楽果、悪因苦果』といいます。
なぜ「悪因苦果」と表現するのか?
たとえば、ある人が、友人にひどい仕打ちをしてしまい、その結果、友人から絶交されてしまったとします。
これだけを見ると、確かに「悪い原因(悪因)」によって「悪い結果(悪果)」が返ってきたように見えるでしょう。
しかし、仏教の因果観は、結果そのものを「善い・悪い」と単純に判断することはしません。
なぜなら、結果とは固定された“罰”ではなく、私たちがどう向き合い、どう活かすかによって、次なる「原因」となり、未来を変える可能性を秘めているからです。
絶交されたことで深く反省し、自分の態度や言葉遣いを改め、より誠実な人間関係を築こうと努力するようになったとします。
それは、まさに人生を変えるきっかけ、つまり「機縁」となるわけです。
このように、悪い行いの結果として「苦しみ」は生じるかもしれない。でもその苦しみをどう受け止め、どう活かすかで、その後の人生の質はその人にとって良い方向に変わる可能性もある。
仏教では、そう考えます。
したがって、仏教の立場からすると、「悪因悪果」ではなく「悪因苦果」、つまり悪い原因には、「悪いこと」ではなく「苦しみ」という結果が伴う」という表現になるわけです。
仏教の因果は「運命論」ではない
ですから、仏教の「因果の法則」は、決して「運命論」ではないということです。
つまり、「悪いことをしたから、もう未来は悪くなるしかない」とか、「善いことをすれば、必ず報われるはずだ」といった、固定的で絶対的な運命観ではないということです。
仏教の因果は、むしろ「現在の行いによって、未来はいくらでも変えられる」という、きわめて柔軟で能動的な教えなのです。
中村天風氏の言う「原因結果の法則」もまた、私たち自身が人生の責任を引き受ける姿勢を養う上で、重要な示唆を与えてくれます。
ただ、仏教の視点からその因果をもう一歩深く見ると、「悪因悪果」ではなく「悪因苦果」という表現の方が、より実態に即しているといえるのです。
どんな過去も「未来の種」になりうる
この記事を通じて、私が伝えたいのは次のことです。
自分の人生を変えられるきっかけは、他でもない自分自身の心と行動である。
「悪因」から「苦果」が生じても、そこから始まる気づきや成長のチャンスがある。
たとえ過去にどんな失敗があっても、それをきっかけに今から善い種(善因)をまけば、未来は変わる。
人生において、自分のせいであろうがなかろうが、苦しみは避けられないものかもしれません。
でも、仏教の因果の教えを知っていれば、どんな苦しみにも意味を見出し、希望へとつなげていく道が見えてくるということです。
ピンチの中にこそ、チャンスの芽がある。
そうした視点で日々を生きられたなら、人生はもっと自由で、豊かなものになるのではないでしょうか。
まあ、こんなエラソーなことを書いている私も、後悔や悩みで頭がいっぱいなんですけどね。
さんざん悩んだ挙げ句、結論はそんなふうに気持ちを切り替えています。
悩みや行き詰まりのある方は、少し気持ちは晴れましたか。

〈業〉とは何か ──行為と道徳の仏教思想史 (筑摩選書) - 平岡聡
この記事へのコメント
悪い事して儲かってる方が多い事を考えると
一概にはと思ってます
吾唯足るを知る という心境には至っていないものの健康で暮らしていければいいなとは思えるようになりつつあります。
それ以前の病院の時は、カロリー計算や日課のお散歩8,000歩以上とかかなりの条件を出されていて、結果糖質制限のし過ぎで激しい頭痛が3週間以上も続いて地獄でした。
何事も過ぎるのは良くないなって、今になって思います。
自分なら「因果応報」とは言いますね。
この場合、単純に善悪と言い切れないニュアンスもあるような。
「悪因苦果」「善因楽果」という言葉だったのですか。
確かに、そのほうが、納得のいく響きです。
起きたことを「悪」とは言い切れない。ですよね。
苦しいこと、必ずしも悪いことばかりではない、というのは、日ごろからと言うか、長年の間に実感しております^^
意味深い内容、ご紹介ありがとうございました。
nice!です。
「行き詰まりはしばしば、未来世界を見る、僅かに開いた
の節穴にもなり得る」と、前向きに考える事にしました。
難しい。
ニコは原因不明の病気を発症した時に絶対に治ってやるという気持ちで、車椅子から補装具で歩けるようになり、今では運動靴で2万歩歩けるほど回復?いや進化しています。まあ歩いた数日は筋肉痛です。
悪い事をすれば お天道様が 見てると思い 徳を積むように・・・
仏教の教えは 素晴らしい されど人間 生きていくのは大変ですが
なる様になる と 開き直りも 大切ですよね
ただ 家庭環境は 一番大切で 子を 死に追いやす 親の愚かさは 仏さまも 救えないです
生じた「苦果」にどう向き合うかが大切、ほんとそう思います。
「いい事」「悪い事」も立場が変われば逆転することもあるでしょう。
起こった事をどうとらえるかで未来は変えられるかもしれない、そう思っていたいです^^
因果応報とはよく聞いたものです・・・(^-^)!!
あまり深く考えない、悩まない性格かも!
他人様とケンカしない! これモットーにしてます。
これも仏教の教えに起因しているのでしょう
ある時期を過ぎて今は毎日が感謝・幸せの日々
それを感じられるのは絶望と後悔を乗り事が出来た出来たから