池袋暴走事故で家族を失われた松永拓也さんの「自利利他」
7年前に起こった池袋暴走事故。家族を失われた松永拓也さんの言葉が話題になっています。「妻と娘の命を無駄にしないために」という活動の根底に、「自分が生きている実感を得たい」という気持ちがあるのではないかという葛藤があったというのです。
松永さんのポストによると、事故を機に、そのようなことが2度とないように活動してきたが、それは誰かのためという口実で、実は自分が生きている実感を得たい気持ちがあったんじゃないかという葛藤があった。
しかし、自分の心が楽になり、その活動が結果的に誰かの役に立つのなら、それで十分じゃないかと思うようになった、というポストです。
どうやら、利他活動に潜む「利己性」への後ろめたさに悩んでいたように見えます。
社会的に善い事をすると、「売名だろう」「ええかっこすんな」といった世間のくだらない声が上がるので、そのように悩むことはよくある話です。
しかし、「自利」あっての「利他」という心情は、人間としてごく自然であり、むしろ健全な在り方なのです。
「自利」のない「利他」はありえない
明日で39歳になります。事故当時は32歳。月日が経ちました。… pic.twitter.com/CsPqi2bnKl
— 池袋暴走事故遺族 松永拓也 (@ma_nariko) August 25, 2025
松永拓也さんのポストから一部引用します。
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明日で39歳になります。事故当時は32歳。月日が経ちました。
「妻と娘の命を無駄にしないために、誰かの命が守られるように活動を続けよう」と生きてきた。その一心で、走り続けてきた気がする。でも最近、ある葛藤に悩んていた。結局その根っこには、「誰かの役に立つことで、妻と娘の命を無駄にしていないと思いたい」という、自分が生きている実感を得たい気持ちがあったんじゃないかと。
妻と娘や、他者のためにやっているつもりで、実は自分のためなんじゃないか。そんな自分は卑しい人間なのではないかと。
最近は、そんな自分の心と正面から向き合い、悩んだ。活動に対するモチベーションをどこに向けていいのか分からなくなる瞬間もあった。
それでも今は、「自己中心的利他でいい。」そう思えるようになった。
活動をすることで、自分の心が少し楽になる。そして、その活動が結果的に誰かの役に立つのなら、それで十分じゃないかと。
心が楽になることで、妻と娘もきっと安心してくれる。2人とは会話は出来ないけど、生前のふたりならそう言ってくれそうな気がする。
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松永さんが「自己中心的利他」と表現しているのは、仏教で説かれる自利利他を意識しているものと思われますが、自利利他とは、自己の修行や悟りを追求する「自利」と、他者を救済する「利他」が一体となった概念です。
これは単に、「他人のために尽くす」という意味ではありません。
私たちは往々にして、「純粋な利他」とは、自己の利益を一切考えない無私の行為だと考えがちです。
そして、そこに「自利」が入ると、純粋でないものになってしまうと。
しかし、そのような完全な無私は、現実にはまずありえないことです。
心理学の研究でも、ボランティア活動などに従事する人々は、他者に貢献しているという実感と同時に、自己成長や生きがいといった個人的な利益も得ていることが明らかになっています。
たとえば、毎日、誰にも言われず、名乗らず、街のゴミ掃除をする人は滅私奉公でしょうか。
対外的にはそう見えるかもしれませんが、それは、その人がやろうと思ったからやっているのです。
やらないより、やったほうが、その人にとっては心が満たされるからやっているのです。
この「自利的」な側面こそが、困難な活動を持続させる原動力となります。
なのに、滅私奉公こそ利他の精神などという、実態不明な綺麗事をお題目として掲げることで、かえって自己欺瞞ではないかとの罪悪感を生み出してしまいます。
もとより、人間の行為には、常に多層的な動機が存在します。
他者を助けたいという気持ちと、それによって自分も充実感や意味を見出したいという気持ちは、決して矛盾しません。むしろ、その両方があってこそ、持続的な善行が可能になるのです。
松永さんの場合、「妻と娘の命を無駄にしたくない」という思いと「自分が生きている実感を得たい」という気持ちは、互いに支え合う関係にあります。
悲劇を単なる悲劇で終わらせないためには、その経験を意味あるものに変えたいという個人的な欲求が必要不可欠なのです。
仏教が教える「自未得度先度他」
やらない「善」よりやる「偽善」や「売名行為」の方が世の為人の為になる、と杉良太郎さんがおっしゃていた。 pic.twitter.com/9bpc0BHA5t
— ピッコロ (@OmachiTaizo) August 16, 2025
仏教の観点から見れば、自利と利他を分離して考えること自体が、誤りとされています。
『法華経』には、「自未得度先度他」(自分が未だ度されないうちに先ず他を度す)という菩薩の理想が説かれますが、これは他者を救う過程で自己も救われるという逆説的な智慧を示しています。
私たちは、他者への貢献を通じてのみ、真の自己実現が可能ということです。
同時に、自己の成長なくして他者に真に貢献することもできません。
この相互依存関係を理解することが、自利利他の真髄なのです。
ひとさまを、利用するだけでも、逆に、ひとさまに利用されるだけでもだめなのです。
ともによくなろうという自利利他の精神で、日々営んでいることはありますか。

はじめての利他学 NHK出版 学びのきほん - 若松 英輔

理想的な利他 仏教から考える - 平岡 聡
この記事へのコメント
そんな中でも、活動し現在の心境は自己中心的利他という事なんですね。
仏教の事はよくわかりませんが、人様のお役に立てること自分には何もないなって思ってしまいます^^;
知人なら手を差し伸べるけれど、24時間テレビで
寄付はせず「あれは偽善番組だ」と批評するだけ。
そういう世知辛い人の何と多いことか。
わたしは、国境なき医師団やユニセフなどに
わずかながら寄付している偽善者です。
何か相手にしてあげる時って、純粋の奉仕ではなく、どこかに自分がしてあげた満足感があり、やってる気がします。
道路陥没で使えなくなり、埼玉県の東部で、節水で広域が影響の
現場の近くの寺には、お盆の時期に施餓鬼の布施を私もしました。
自己満足と言われようと犯罪や他人に迷惑をかけないならば自由でよいと思います。
自分にとってブログがそうかもしれません。
松永さんをずっと応援したいと思ってきました。
とに角生きていて欲しい・・・辛いけれども生きてと。
活動されてテレビに出る姿はいつも見るのがつらかったです。
いろいろ言う人には言わせておけばいいのです。
心貧しい人には大切な人を理不尽に失った人の辛さが
分からないのでしょう。
とに角松永さんが前を向いて歩む姿に心から応援し続けたいと
思っています。
上のコメントに名前が入ってませんでした。
yoko-minatoです。
あの事件は被害者にはとてもお気の毒に思うとともに
犯人の官僚爺さんにはとても腹が立ちました 💢
自利利他、少し勉強してみます。
気の毒な方だと思います。
思わず涙が出てきそうです。
自分は自治会で活動していますが、
時々考えさせられる事です。
身近な人の命が予期せず失われたら、どんな状態になるんでしょう。
過失とはいえ事故ですから、悲しみ・憎悪・今後のことでしょうか。
自利を求めて生きて行く姿勢は、
「これしかない」といった当然の帰着ではないでしょうか。
ずっと昔からそのように理解していました。
人に迷惑をかけない暮らしを基本にしています。
加害者との長引いた裁判になると、松永拓也さんが思う「自利利他」と言う
言葉も出てくるのかと思います。
一方で一瞬にして家族を失った事は言葉では表せないほどの衝撃で有り受け入れ難いものだったと思います。
自利利他が理想では有りますが利他は自己犠牲の下に成立するとの考えも有り、色々と考えさせられますね。