「坊主丸儲け」の嘘と本当~『住職たちの経営戦略』が明かす寺院経済の過去と現在
「銀座で飲んでいるのは今や坊さんだけ」―そんな言葉を聞いたことがありますか。また「坊主丸儲け」ということわざも存在します。世間には、元手がかからず高収入を得ていますという昔ながらの僧侶像が根強く残っています。しかし、これは果たして真実なのでしょうか。
2025年1月29日に吉川弘文館から出版された田中洋平さんの『住職たちの経営戦略: 近世寺院の苦しい財布事情』は、こうした通念に真っ向から挑戦する内容です。本書は江戸時代の寺院が直面している経済的困難を詳細に描写しながら、現代の仏教界の実情をも考えさせてくれます。
江戸時代も現代も寺院経営は「苦闘」の歴史
知ってる❓
— まさみ🇺🇸(クリエイティブサーキュレーター) (@WP8HrFh6Ht62586) August 13, 2025
お盆明けは……
坊主丸儲け😎🤟
「坊主丸儲け」とは、お坊さんが元手や経費をかけずに、お経をあげるだけでお布施を受け取ることを指し、非常に利益率が高い商売であるという意味のことわざです。また、元手なしで思いがけない利益を得た場合にも使われます。 pic.twitter.com/jElziM6x6m
江戸時代における寺院経営は、表面的には幕府からの特権を享受しているように見えたものの、実際には多くの零細寺院が経済的に困窮していたといいます。
具体的には、人口減少や信仰心の衰退による収入減少、檀家との対立、地域社会との関係維持の困難さなど、現代と驚くほど類似した問題に直面していました。
重要なのは、現代の寺院経営の問題が、過去からの延長線上にあるという指摘です。
要するに、昔も今も多くの寺院は経済的に大変である。その理由は共通している、というのが本書の核心的なメッセージです。
日本仏教の特殊性と経済基盤の脆弱さ
日本に仏教が伝来したのは6世紀半ば、聖徳太子によって導入され、国家が仏教を保護・利用することで国全体の安定や繁栄を図ろうとした「鎮護国家」の思想が特徴的です。
インドや中国では、信仰者が自発的に僧団単位で活動し、托鉢で生計を立てていたため、世間の信用を得るための厳格な規律が必要でした。
一方、日本では国が持ち込み、国に保護されていたため、そのような自律的な規律を作る必要がなく、托鉢による自活の伝統も弱かったのです。
とはいえ、寺院の維持は自ら行わなければならず、檀家からのお布施で経営を成り立たせていたため、収入は不安定でした。
現代でも、土地のある寺院は幼稚園や駐車場、アパート経営などで収入を得ていますが、都市部の狭小寺院では葬儀や法要のお布施、永代供養料、寄付のみが収入源となっている場合が多いようです。
「富裕層」と「大多数」のギャップ
明確な統計データはないものの、「多くの調査や研究報告から、全国の寺院の約6割が経営難に陥っているという見方が一般的」(Gemini)です。
にもかかわらず、「坊主丸儲け」というイメージがなぜ根強いのか。
これは一般社会の経済格差と相似形です。
ごく一部の「富裕層」の僧侶や寺院が持つ派手なイメージと、大多数の寺院が直面する厳しい現実との間に大きなギャップがあります。
一般国民の間でも、「富裕層」とそれ以外の人の年収の「平均値」や「中央値」に乖離があるように、寺院経済も二極化が進んでいるのです。
根本に「信仰で結ばれていない寺院と檀家の関係」
では、昔も今も寺院が経済的に苦しむ「共通した理由」とは何でしょうか。
私見では、寺院と檀家(信徒)が信仰で結ばれていないことが根本的な問題だと思います。
江戸時代は、寺請制度により人々は信仰以前に「決まり」として寺院と付き合わざるを得ませんでした。
現代では、「葬式仏教」などと批判され、冠婚葬祭のときだけの「演出」に利用する表面的な関係になりがちです。
そんな薄い関わり方では、人々は仏教を支えようとは思わないでしょう。
実際には、私たちの生活に、仏教の教えの影響は広く深く及んでいます。
ですから、日本の文化に必要な宗教であることは間違いありません。
ですから、縁あって仏教に世話になっている人は、もっと仏教としっかり向き合ってほしいと思います。
寺院側も、葬式や法事のお布施で満足せず、人々との関係をより深める方向に努力してほしいと思います。
「葬式仏教」からの脱却~信仰の本質へ
私が常々主張しているのは、「信じていないやつが葬式・法事仏教はするな!」ということです。
四十九日まで毎週集金に来て一周忌、三回忌…百回忌
— TAKE-$ (@TAKE14) September 8, 2025
坊主丸儲け
法事鬱になりそうです。
宗教って心の安らぎ与えてくれるんじゃないのブツブツ…仏々
狩野英孝さんのおみくじソールドアウト発言で神社も嫌いやけどね。 https://t.co/BLuoc3dg4L
このポストは、「四十九日まで毎週集金に来て一周忌、三回忌…百回忌。坊主丸儲け。法事鬱になりそうである。宗教って心の安らぎ与えてくれるんじゃないの」と書いています。
確かに、経済的負担が大きいと感じる気持ちは理解できます。
しかし、檀家や信徒は契約で縛られているわけではなく、いつでも離檀できるはず。
金銭的負担を感じながら続けるのは、自分自身の選択の結果でしょう。寺院のせいにしてはいけません。
信じていないものを、文句を言いながら付き合い続ける。その不満は誰の責任でもない、あなた自身の責任です。
せっかく縁あってお寺と付き合いがあるのなら、それは前向きに仏教を理解するチャンスと捉えるべきではないでしょうか。
どうしてもそう思えないなら、仏教と距離を置くことも一つの選択肢です。
そうかと思うと、「いや、自分は信じていないんだけどね」と前置きしながら、葬式や法事では住職を招く人も多い。
なんでですか? 仏教徒であることが、それほど外聞が悪いことなんでしょうか。
個人の信仰と社会的慣習の間で
私自身は、親類と祭祀承継でもめたため、嫌気が差し、現在は菩提寺との付き合いもありません。
でも、仏教の教え自体には他の宗教にはない深い道理を感じ、本来は唯物論者でありながら、仏教学の博士課程まで進みました。
『バカの壁』の著者である養老孟司先生は、特定の宗派の檀家ではないものの、自己紹介で「仏教徒」と名乗っているそうです。
その気持ち、よくわかります。
宗派や寺院との形式的な関係ではなく、仏教の教えそのものに価値を見いだす態度です。
ということで結論は、
「坊主丸儲け」というイメージは虚像であり、現実には6割の寺院が経営難に直面している。
仏教に限らず、宗教の本来のあり方は、本当に信じるから支えられる
ということです。
お彼岸のお墓参りは、いかれましたか。
それを単なる習慣としてではなく、仏教と向き合う機会としていただければ幸いです。

住職たちの経営戦略 歴史文化ライブラリー - 田中洋平
この記事へのコメント
少子化で人口増も望めない以上、寺院や神社の統廃合は
避けられないように思います。
何宗は名乗っても、何派でもない独立系のお寺が今後は増えるかも。
俗物きわまりと感じました。
また、知人の葬儀の折のお清めの席で、お坊さんは誰よりも恰幅がよく、
たくさんお酒を飲み、食べていました。
我が家のお墓のあるお寺は無人で、同じ宗派の近くのお寺からお坊さんが参ります。地方の無名のお寺では、檀家は減り、お布施も集まらなくなって大変の様子です。
今や父が亡くなって50年も経っているので、お経をあげてもらう事も無く、母も認知症で施設入っているし、兄も足が悪くお墓まで来られない状況なので、お墓参りは私だけが行っています。
実家の嫁や甥姪は、お墓参りさえしていない状況なので、この先どうなるのか思案しています。
どの業界も経営は大変ですね。
nice!です。
は、なってしまいました。9月29日頃に台風来た
ら、墓参りと空き家実家の雨漏りチェック、私は
する予定でしたけど。19号関東南部接近も、どう
やら無いようですね。
仏より神様のが 費用が安いなど・・・転換している檀家さんも・・・
田舎では 住職+教員の 副業の方が 多いです
今は 昔の様には 行かず 墓仕舞いも 増えてるので どうなるんでしょうねーー
いつも 温かいお言葉に 感謝です
墓じまい、実家じまいと縮小傾向ですから、寺じまいも有って不思議じゃないと思います。
商売していて儲からなくなって廃業したら誰かに雇われて働けばいいだけの話なのです、それが嫌なら廃業しないように努力すべきでしょう。
何百年と続いた老舗で有っても儲からなければ店を畳まないといけません、それと同じで寺院だけ特別と言う訳には行かない時代なのだと思います。
これからは日一日と昼間が短くなってきますね。
この時期が一番嫌いなんです 😂
(墓はなく納骨堂に)檀家にはならないと最初に告げていますが
毎年年会費3500円・施餓鬼供養は10000円
春秋彼岸参り・棚参り・命日と4度お布施も大変(5000円包む)
去年からは棚参り・命日だけに+年会費は葉書が来るので振り込みを
自分の供養が一番と思い朝・夕欠かさず拝礼・月命日は欠かさず納骨堂に
いつもお世話になっております。
家の近くに、関東大震災で焼きだされて移転して来た寺院通りがありますが町との交流が全く散って良い位ありません。
日行って見たいけれど入り難さを感じます。
私は戦中にお寺の幼稚園に通いましたが・・・。
こちらのお寺は何も動きを感じません。
動くのは”花まつり”の時だけのようです。
戒名をつけるのに 30万円とか、しかも非課税。
そういうのを見て坊主丸儲けと言っていると思います。
一応神道です。
寺院も檀家も、2代目3代目になるとそれぞれ離れて行く感じがします。
寺院すら競争原理にさらされるという事なのでしょう。