本当の友達とは?~北野武の言葉から考える友情の本質~
「良い友達がなかなかできない」
「周りに人はいるけど、本当に信頼できる友達が欲しい」
「SNSのフォロワーは増えたけれど、心から繋がっている実感がない」
このような悩みを抱えている方は、少なくないのではないでしょうか。
先日、FacebookやXなどに流れてきた投稿で、興味深いものがありました。
北野武さんの「友達の作り方」についての意見です。
困ったとき、助けてくれたり
— 松本改め電止め八十三 (@nPXtFMhRZKOOxKE) March 5, 2024
自分のことのように心配して
相談に乗ってくれる
そんな友人が欲しい?
馬鹿野郎、
友達が欲しかったら
困ったときに助けてやり
相談に乗り
心配してやることだ
そして相手に何も期待しないこと
それが友人を作る秘訣だ。
~ 北野 武 ~ pic.twitter.com/HnLi95WBEF
困ったとき、助けてくれた
友達が欲しかったら
自分のことのように心配して
相談に乗ってくれる
そんな友人が欲しい?
馬鹿野郎、
友達が欲しかったら
困ったときに助けてやり
相談に乗り
心配してやることだ
そして相手に何も期待しないこと
それが友人を作る秘訣だ
北野武
出典:JIJI.COM
https://www.jiji.com/jc/d4?p=krd502-jpp016433789&d=d4_ff
私たちはつい、「自分を理解してくれる人」「寂しいときに側にいてくれる人」「困ったときに助けてくれる人」と、相手にばかり求めがちです。
しかし、北野武さんは、その欲求を真っ向から否定します。
「そんな都合の良い友人を求めるな。お前自身が、まずそのような友人になれ」と言うのです。
まずは自分が、相手に「give」しなさい、ということです。
北野武さんのおっしゃる、友情や人間関係において、「助け合い」や「無償の心配」が大切だという考えは、仏教の利他精神とも通じるものです。
このような関わりは、精神的な豊かさや信頼関係を築く土台となります。
しかし、残念ながら、人間にも色々いまして、そこに甘えたり、それを利用したりする人もいます。
つまり、一方的に尽くしてもらうだけで、自分の側からは何ら「give」のない人がいます。
「あんたは、アタシに尽くして当然」という思い上がった人ですよね。
自分から「与える」という行為は、むしろそういう人をはっきりさせる、「フィルター」になるということもいえると思います。
「与える」ときの対応で相手のことがわかる
たとえば、誠実に相手を心配し、相談に乗り、困ったときに手を差し伸べたとします。
その時、相手の反応はおおむね2通りに分かれます。
A. 感謝の気持ちを示し、何らかの形で(必ずしも同等のものでなくても)関係を大切にしようとしてくれる人
B. その親切を当然と思い、一方的に受け取るだけで何も返そうとしない人
つまり、「与える」ことを実践する過程で、自然と「こちらの誠意に応えてくれる人」と、「そうでない人」を選別できるのです。
「B」の人だとわかったら、無理に迎合したり、顔色をうかがったりする必要はありません。
ケンカ別れする必要もありませんが、無理に付き合うこともありません。
自分が「与える人」になることで、良い関係だけを選び、悪い関係は距離を置けるということです。
つまり、利他の精神も、実は「自分のため」ということです。
こうした付き合い方をするためには、日常的に
1. ひとさまには、小さな「与え」を習慣にする
2. 与えながらも、しっかりと「観察」する
3. 自分自身も「与えられる価値」のある人間になる
といった行為の積み重ねによって、信頼できる関係を築けるようになると思います。
ブログにコメントを付けるだけでも「利他」
仏教の「布施行」とは
— れんげ (@cF47jeXIso80L32) September 6, 2021
・法施(仏教を弘教する)
・財施(弘教する僧侶を財施で支える)
・無畏施(無財の七施)
①眼施 ②和顔施 ③言辞施(愛語施) ④心施
⑤床座施(席を譲る) ⑥房捨施(一夜の宿と食事を提供する)
⑦身施(身命施=最高の布施行[一心欲見仏 不自惜身命])
南無妙法蓮華経???? pic.twitter.com/npHFkt73CL
仏教には、「布施」という修行があるのですが、修行と言っても荒行ではなく、利他の精神で相手に「give」することです。要するに「利他の精神」を実践することです。
具体的には、次の3つが基本です。
1.財施(物質や金銭を与える)、
2.法施(仏教の教えを与える)
3.無畏施(相談を聞いたり、情報を提供したりする)、
一般の人間関係構築には、「1」と「3」が役立ちますね。
「物質や金銭を与える」といっても、大したことではありません。
会って話したら、コーヒー代を奢るとか、自分の持っているガムや飴玉をお裾分けするとか、その程度でいいのです。
私たちが巡回し合うブログにおける「利他の精神」は、巡回した記事に、コメントをつけることですね。たった、それだけのことでも十分「3」に該当するのです。
もちろん、嫌がらせ目的のアンチコメントは別として。
以前書きましたが、自分の娘の大学合格に「おめでとう」とコメントを書かせたくて、普段ずーっと何も書かなかったのに、急にとってつけたようなコメントをして自分のブログに誘導した方がいました。
普段から交流があれば、心から祝福のコメントもできるのに、残念だなと思いましたね。
信頼関係って、お互いにコツコツと地道な作業を継続して、積み重ねるものだと思うんです。
北野武さんの教えは、友情を「収穫」としてではなく、「種まき」として捉えることの大切さを教えてくれています。
良い種(与える心)をまき、水をやり(継続的な親切)、雑草(一方的な関係)は抜いていく。そして、いつ芽が出るか、どの種が育つかは、自然に任せる(期待しない)。
人間関係も、農作物を育てるのと同じ。日々の丹精なんです。
この過程を、自分の「人としての在り方」として楽しむことができたとき、そこにはきっと、打算を超えた、温かくて確かな「本当の友達」という実りが待っているのではないでしょうか。
みなさん、種は蒔いておられますか

友活はじめませんか? 30代からの友人作り - 木村隆志, 綾部江里子
この記事へのコメント
仕事関係だったり、子供の父母としての関係だったり、離れてしまうとなかなか会う機会も無くなったりして…
それこそ、「継続は力なり」なのかなって思ったりします。
金銭が絡むと親ですが
友達は無料の便利屋に非ず。
時が経てば人脈は廃れるし、いつまでも若いままではいられません。
死ぬときは独りと覚悟がいります。
でもそう信じていた人に裏切られた感じになった時(お金を貸して、ある日そのままドロンされてしまった)は、見返りを求めないつもりでいたけど、やっぱり恨んだり、自分が情けなかったり、自分が見る目がなかった事に悩みました。
中々信じると信じられる関係は難しいですね。
だから友達がいません。
助けられたり教えて貰ったりすれば(返報性の原理とまで言わなくても)その人を大切にしたり何かにつけて気にかけたりするのが普通なのでは?と思いますし、見返りを求めない他人に向けての行動が、結果的に友情に繋がって行くのだと思います。
しかし、中には友達の多さを競うだけとか、困った時だけ頼って来る人(教えて君、くれくれ君)等々も混じってたりしますから、なかなか厄介ですねー。
nice!です。
にだけ、寄って来るケースが、私の居る地点の近傍では多いので。。
友達・・真剣に考えたことはないですね~
竹馬の友だとか刎頸の友とか言いますが私には
いないかなあ~❓
人に助けてもらいたいと感じているのならば
人を助けることです。
ところが親の介護や自分自身の病気で旅行やスポーツが出来なくなった途端に、す~っ潮が引くように多くの友人が去りました。私は単なる都合のいい便利な人。私の方も楽しく遊ぼう!というだけで親身に話を聞いたり思いやったりが欠けていたと思います。たけしさんのおっしゃる通りですね^^
相手を助ける、そして何も期待しない、そういう人ありたいと切に思います。
賛同です(語り口が強いので伝わりにくい)
あと少しの人生、少しでも手本に生きていきたいですね。
自分が愛されたい、何かしてほしいとばかり焦がれているのでは、ちょっとね。
ただ、おっしゃるように~
友達が欲しいからと見返りを求めて何かしてあげたら、同じことをしてもらえるとは限りません。
甘やかし過ぎて、相手はしてもらうのが当然になる場合もあります。
世の中には色々な人がいるってことは、出会わなければ、わからないもの。
付き合い方にも色々あるので~
付き合いが深まっていくなら、そういうご縁あり、かな^^
求めて親切にするのは友人とは言えず、その人が困っていたら
自然に何かしてあげたくなり、喜んでいたら一緒に喜べるよう
な人が自分にとっての友人なのかな、と改めて思いました。