「見える・見えない」から考える障害者問題の多様性と包摂
「見える・見えないを通じて『多様性』をとらえなおす」という、東京科学大学の伊藤亜紗教授へのインタビュー記事が話題になっています。参天製薬(Santen)のウェブサイトに掲載されたこの記事では、視覚障害者研究を通して、「多様性」や「インクルージョン(包摂)」をどう考え直すべきかが語られています。
この記事の特徴は、「見える側」から障害を理解しようとするのではなく、「見えない側」から世界を考え直している点にあります。
伊藤教授は、視覚障害のある状態を「本来あるはずの機能が欠けた不完全な状態」とは捉えません。
たとえば、四本脚の椅子の脚が一本欠けているのではなく、最初から三本脚として設計され、その形で安定している椅子のようなものだと言います。見え方や感じ方は人それぞれであり、「健常」が基準ではない、という発想です。
この視点から見ると、インクルージョン(健常者と障害者の包摂的社会)の意味も大きく変わってきます。
障害者を、健常者が作った枠組みの中に「入れてあげる」ことが包摂なのではありません。
むしろ、マジョリティ(多数派=健常者)側のルールや環境そのものを問い直し、作り替えることこそが、本当のインクルージョンだと伊藤教授は指摘します。
「違いを認める」だけで十分なのか
今日の情報源です。
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— Santen/参天製薬【公式】 (@Santen_Eye) November 28, 2025
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最新記事をアップしました??
「見える・見えないを通じて「多様性」をとらえなおす」
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現代社会では、「ダイバーシティ&インクルージョン(D&I)」という言葉が広く使われています。
障害の有無にかかわらず、互いの違いを認め合い、誰もが社会に参加できるようにしよう、という理念です。
一見、正しい考え方に思えます。
しかし伊藤教授は、「多様性」という言葉に対して、あえて慎重な姿勢を示しています。
「多様性が大事だ」という言葉が、いつの間にか「私とあなたは違うのだから、分かり合えなくても仕方がない」「だから深入りしなくていい」という線引きの口実として使われてしまう危険があるからです。
「違いを認める」という行為は、相手を尊重しているように見えて、実は「干渉しない」「関わらない」ための便利な理由になってしまうことがあります。その状態では、理解も支援も生まれません。
そのため伊藤教授は、「ダイバーシティ」と「インクルージョン」は本来、緊張関係にある概念だと考えます。
多様性は個々の違いを際立たせ、放っておくと分断を生む力です。一方、インクルージョンは、ばらばらな個をつなぎ直す力です。
だからこそ、「ダイバーシティ“アンド”インクルージョン」ではなく、「ダイバーシティ“バット”インクルージョン」、つまり多様性は大切だが、それだけでは分断するので、包摂する姿勢が必要だと述べています。
障害者問題における「包摂」とは何か
では、障害者問題における「包摂」とは、具体的に何を指すのでしょうか。
伊藤教授が強調するのは、「単純に健常者の集団に障害者を混ぜること」ではない、という点です。
たとえば、「全員が同じ姿勢で座ること」を前提にした教室では、姿勢を保てない人は排除されてしまいます。
しかし、最初から立っている人、寝転んでいる人、座っている人が混在する場であれば、誰もが居場所を見つけやすくなります。
これは、障害者が健常者に合わせるのではなく、場の設計そのものを変えるという発想です。
また、過剰な配慮によって相手を「お客様」にしてしまうことも、包摂とは言えません。
冗談を言い合い、ときには突っ込み合い、同じ目的のために泥臭い作業をする。そうした対等な関係性の中でこそ、「ここにいていい」という実感が生まれます。
障害は一様ではない
アメリカのスーパーでは、レジと別に袋に商品を詰めてくれる係がいて、それをダウン症の人がやってたりする。
— United vegetables🐐🌿🌾 (@vagitableunited) January 1, 2026
日本もこの人達を作業所に押し込んどくんじゃなくて、社会の中で仲間として共に歩むべきだと思うな。
出来る事をしてもらって、出来る事をしてあげたい。pic.twitter.com/jkFJmWnja8
先日、私は、買い物の帰りのバスで、就労支援B型の作業所(働けるけれど健常者のように常時労働は困難な人々)で働く障害者のグループ4人といっしょになる機会があったので、後ろの席に座って、全神経を集中して彼らの話を盗み聞きしていました(笑)
ダウン症の20代前半の女性が中心になって楽しく世間話をしていたのですが、他の人からなんか軽口を叩かれたら、彼女は「言ったなー」とリアクションして、一同の笑いを取って楽しそうにしていたので、コミュ障の私は感心してぽんと膝を打ち、「〇〇と言われたら『言ったなー』とリアクションする」と、要点をメモしました(笑)。
だって、もし、私が彼女の立場だったら、「おいお前ら、バカにするのもたいがいにしろよ」とか言って、その場をぶち壊していたと思いますから(汗)、ダウン症の若い女性が自然に場を仕切り、軽口をうまく受け流しながら周囲を笑わせているコミュニケーション力に、感服したのです。
何を言いたいかというと、障害があるからといって、すべての面で「劣っている」わけではないどころか、気づきや学びだってあり得るのです。
ですから、「包摂」は、決してマジョリティ側の一方的な同情や譲歩という意味合いではないのです。
綺麗事の先へ
「差別はいけない」「多様性が大事だ」という言葉を唱えるだけでは、社会は何も変わりません。
大切なのは、自分自身が「包摂」実現のために何を変えられるのかを考え、実際に関わろうとする姿勢です。
きれいなスローガンの先にある、少し面倒で、しかし確かな実践に、私たち一人ひとりが向き合う時期に来ているのだと思います。
みなさんは、障害のある人々とのコミュニケーションで、どんなことを心がけておられますか。

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書) - 伊藤亜紗
この記事へのコメント
さらっとスムーズにサポートできればと思う事はありますが
だって作業所ということは、障害者枠での企業就労が難しいということですよね。
おそらくそのグループの人たちって、コミュニケーション能力が全員バラバラというかまちまちというか、要するにそういう人たちをまとめるのってすごく難しいことだと思うんです。
しかも、その難しいことを健常者ではなく、障害者自身がつとめていることが驚きというか、健常者以上に高い調整力を持っていると感じました。
健常者目線で「してあげる」ことではなく、場やルールそのものを問い直す視点が大切ですね。
だから、「サポートする」とか「助ける」というのは、伊藤教授の趣旨とは違うような気がします。
ある日、そこで働いていたお兄さんとお話ししてたら、あなたのうちは全員が自分を普通の人として接してくれてるので嬉しいと言われ、びっくりした経験があります
>南無さん
>2026年01月06日 00:37
>だから、「サポートする」とか「助ける」というのは、伊藤教授の趣旨とは違うような気がします。
全くその通りですが、私の筆力不足でした!
今回は、「困っている人を見つけて何かをする」ではなく、「困りごとが生まれる仕組みをそのものを見直す」話です。
記事は修正せず、ここに追加します。
私が考える、具体的な「仕組みの見直し」です。
・分からなかったら聞き返していい、という空気を個人の勇気に任せず明文化する
・〆切や集合時間を「ギリギリ一択」にしない
・立っても歩いてもいい空間設計
・「途中退席=失礼」という暗黙ルールを壊す
・表現は、可能な限り、文字+図、音声+文字など、複数経路で情報を出す
・「できない人がいる」を「ミスしたやつが悪い」と決めつけず、「設計・計画ミスかもしれない」という発想を共有する
善意は「上乗せ」であって「インフラ」ではない社会という意識改革をしてほしい。
このくらいの度量と民度がないと、障害者に限らず、健常者だって万能じゃないんだからさ、生きづらい社会になっていると思いますよ。
nice!です。
接触そのものが少なくなった私は、この点の意識が近年
希薄化していました。御指摘により、反省しています!
まだまだ 障害者への理解は 難しく社会へ通用するには 一般の方の理解とフォローも必要 テレビで高島さんやパラリンピックの選手に 勇気をもらえる報道を もっとしてもらいたいですね
私たちが小学生の頃はどんな子も区別なく同じクラスで
生活してました😀
もっと普通に障害者の方がいれば、理解が深まるかなぁ~と思いました。
市の施設で肢体不自由な人を支援している食堂があり
時々利用を、ぎこちなく注文を取ってくれますので
丁寧にメニューを伝えています。
健常者の都合に合うようにサポートしようとするとおかしくなりますね。