亡くなった人を「蘇らせる」AIについて仏教はこう考える
最近、亡くなった人をAIの動画作成機能で“蘇らせる”ことについて、「簡単にマインドコントロールができてしまったりしないのだろうか」と懸念するxのポストがバズっています。亡くなった人の動態再生。死生観に関わる話ですが、仏教はどう考えているのでしょうか。
以前、私はこのブログで、私の曽祖父の明治時代の写真について、AIを使って複製したことをご紹介しましたが、明治時代の服装や文化を知ることが出来る、「一級品の史料」(Gemini)との評価を得ました。
私の場合は、話に聞いたことがあるだけで、曽祖父とは一面識もないので、それで済みました。
では、思い出が尽きない亡くなった両親や祖父母などの動画だったらどうでしょうか。
一緒に過ごした思い出が蘇り、涙無しには見ることができなくなったしまうかもしれませんね。
出川哲朗さんが、2019年3月に、NHK総合で放送された特番『復活の日~もしも死んだ人と会えるなら~』で、亡き母・泰子さんと「再会」して、泣いてましたね。
亡き母のおにぎりの味に出川哲朗が号泣。感動 https://t.co/UCsULo3a9t
— 無明子 (@shirimochigome) January 19, 2026
身近な人との離別を経験された方なら、これはもらい泣きするんじゃないかな。
でも、これはあくまでもAIのちからであり、残念ながら、亡くなったご本人は何も関与していないんですよね。
それを、悪用することを心配しているポストが、バズっています。
どんなによく出来た動画でもAI
今日の情報源です。
こういう技術が発達すると愛する人を亡くし、弱っている人の心の隙間に「愛する人、信頼する人の顔や声」で、簡単にマインドコントロールができてしまったりしないのだろうか…死者の存在をそこに感じることは、人の営みに反しないのだろうか…本当何が正しいなか解らないpic.twitter.com/0pM0nodQqH
— 竹林 崇@脳卒中リハの専門家, 作業療法士, PhD(医学) (@takshi_77) January 18, 2026
どういうことかというと、カルト教団とか、霊感商法などの詐欺師がね、自分たちでコントロールするためのツールとして、これを利用するんじゃないかというポストです。
繰り返しますが、どんなによく出来た動画でも、亡くなったご本人は一切関与していません。
この一点さえ忘れなければ、そんなものには騙されないと思うんですけどね。
でも、あまりにも本人らしさにあふれていると、「もしかしたら、生きていたら本当にこう言ったかもしれない」なんて思わされてしまうわけです。
亡き人をAIで再現する技術は、単なるテクノロジーの話ではなく、「人は死とどう向き合うのか」という宗教的・哲学的な核心に触れてしまうからこそ、多くの人が揺さぶられるのだと思います。
日本人の死生観というと、やはり、その背景にあるのは仏教です。
仏教は、こうしたテクニックをどう考えるのでしょうか。
仏教的に見た「死者再現AI」の功罪
仏教では、苦しみの根源は「執着(愛着)」にあると説かれます。
愛する人を失ったときの深い悲しみは、「なぜ死んだんだ。生きていてほしかった」という、まさに執着の痛みです。
AIが亡き人の姿や声を再現することは、
・一時的には心を慰める
・しかし執着を強め、手放す機会を奪う可能性がある
という両面を持ちます。
また、仏教では、諸行無常と言って、人も自然も1日たりとも静止することはない、と考えます。
(科学でも当たり前の話です)
なのに、死者を「そこにいるかのように」再現することは、生者の心を過去に縛りつける点で問題視されるでしょう。
その一方で、仏教は人の心の弱さを否定しません。
さきほど「もらい泣き」と書きましたが、もしAI再現が、
・故人への感謝を深める
・心の整理を助ける
・悲嘆のプロセスを支える
という方向に働くなら、仏教的にも「方便(skillful means)」として肯定されうる側面があります。
悲しみは乗り越えられるか
「では結論はいったいどっちなんだ」
ということですが、Copilotに表でまとめてもらいました。
いろいろ考え方はあるということですね。
ただ、いずれにしても、亡くなった人は帰ってくるわけではないので、やはり最終的には、のこった者が、失った悲しみを「乗り越える」ことだと思います。
「乗り越える」というのはね、悩みごとがあると、その都度心の中で、「お父さんだったら、どうしただろうか。お父さん、どうですか」などと、亡くなった人に「ご意見を伺う」のは卒業した人のことです。
以前もご紹介した、曹洞宗の住職の動画です。
ここでいわれているのは、遺影を作り長く飾ることは推奨されていないということです。
時間の経過とともに、亡くなった人は「その他大勢のご先祖様」にしていかなければならないのに、いつまでも生前の顔写真を残していたら、乗り越えにくくなる、ということです。
結論として、乗り越えることがうまくできていない人は、動態再生は、見ないほうがいいのかもしれませんね。
みなさんは、身近な方の動態再生は、見たいと思われますか。

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この記事へのコメント
出会うは別れの始まりと言うように
例え死別ではなくてもその人との人生のレールがそこで分岐してると考えてるおいら
もう、50年以上前に亡くなっていますが…
母も認知症になり、もう父のことは覚えてないかもしれませんがAIでも会わせてあげたいなって思います。
私自身は、それほど思い入れはありませんが…
でも、夢から覚めた時、もう死んで会えないんだな!と認識してるけど、夢でもいいから会って話がしたい!と思ってしまいます。
これは乗り越えていないのでしょうか?
今毎日恐れるのは、自分が死ぬことへの恐れより、伴侶や友達が居なくなって一人取り残されるかも知れない恐れの方が怖いです。自分の死に対しては、多分死ぬ一瞬は苦しむけど、それを越えれば、あの世に逝ってしまった友達に会える!親に会える!という楽しみを感じているのです。
これっていけない事でしょうか?
>むつみんさん
>2026年01月22日 00:50
乗り越えたかどうかは、内心の問題なので、結局ご本人しかわからないことですね。
自分の生活にマイナスにならないのなら、いいのではないでしょうか。
私は、別にどっちでもいいかな。しょせん本物じゃないから……といったら身も蓋もないけど。
思います。
ビジュアル化するより自分の心に生き続けるものだと思います。
nice!です。
辛くても別れをしっかり受け止めなければ、乗り越えることも出来ない気がするからです。
深い悲しみに沈んでいらっしゃる方の一時的な救いになるならいいかとも思いますが、依存してしまいそうで心配です。
人間は、忘れることで、物事に区切りを
つけていくものと思うので、
個人とフェイクの会話をしても
救済にはなりません。
それで救われる人は、使うのは自由と思いますが。
昨日、NHKのドキュメンタリーでAIで奥様を復活させて
毎日、語り合っている様子を見ました。
ご主人は医者で奥様の病気に気付けなかったことが
傷になっていてこの復活を決断したようでした😀
わたしは、『みたくない』派です。
宗教観というよりも、デジタルだろうとクラウドだろうと所詮『造形』と思えるから。なので、想いでは、想いでとして、自分の記憶の中で十分だと思いました。という個人の意見です。
心が病んでいる人とかも、見て欲しくないです。
頼ったり、慕ったりすることはありません。