「評論家」と「学者」とは……
三橋貴明さんという方のポストが話題になっているのですが、私が注目したのは、彼をさす肩書に「自称」とつけられていることです。自称経済評論家、自称経済学者……。では、それらの肩書はどうすれば「自称」ではなくなるのでしょうか。今日は、「評論家」と「学者」の定義についてまとめてみます。
三橋貴明さんといえば、参政党のブレーンと言われていますが、過去にはDVのスキャンダル報道もあり、今回も、自分が、さや議員に買ってあげた20万円のドレスを揶揄したとする特定の人々に対して、報復を予告するポストで物議を醸しています。
【悲報】参政党のブレーン、自称経済評論家の三橋貴明さん、突然リミッターを外して“魂のポスト”を投稿
— 滝沢ガレソ (@tkzwgrs) October 11, 2025
活動家4名へ名指しで『全員●します』『カネの力で生きてることが辛くなるレベルの報いをくれてやる』と堂々殺害予告、圧倒的なパワーを誇示へ#三橋貴明 #参政党 pic.twitter.com/ew0dAA0NgK
ポストの評価はさておき、私が気になったのは、このポストで三橋さんに対して「自称経済評論家」と書かれていることです。
これは、三橋さんを揶揄する意味で書かれているのでしょうが、そもそも「自称でない評論家」というものは、いるのでしょうか。
医師や弁護士のような国家資格があるわけでもなく、どこかの学校を出れば認定されるものでもありません。
評論家とは、分野や知名度を問わず、基本的には誰もが「自称」する肩書ではないでしょうか。
ではなぜ、「自称」という修飾語が、時に皮肉や軽蔑を込めて使われるのでしょうか。
評論家の定義
医師や弁護士が、資格制度で一定の専門性を担保されているのに対し、評論家の信頼性は、「誰が認めたか」ではなく、「何によって納得させたか」で測られる肩書です。つまり、「資格」ではなく「言説の実質」です。
AIのQWENによると、評論家の資質とは、具体的には、
論拠の透明性:データや文献を明示し、推論の過程を隠さない
専門性の自覚:自分の知見の限界を認め、越境しない誠実さ
誤りへの責任:的外れな予測や事実誤認があった際、訂正・修正する姿勢
利害の開示:スポンサーや所属組織との関係性を読者に伝える透明性
などが求められ、それらを欠いたまま「評論家」を名乗り、権威的な口調で断言を重ねる態度は、「自称」と揶揄されるようです。
ここはもう、三橋さんがそれらを満たしていると思う方は「評論家」と呼べばいいし、そう思えなければそう呼ばなければいい、ということではないかと思います。
学者の定義
もうひとつ、三橋さんについては、「自称経済学者」という言い方もついて回ります。
三橋さんが「経済学者ではない」ことを指摘している急先鋒は、米山隆一さんです。
米山隆一さんと三橋貴明さん、もう対談したほうが良いんじゃないですか?お互いのメディアで非難しあっても、どっちが正しいかよくわかんないし。
— kero (@kerokero1162548) April 11, 2025
リハックの高橋さん、セッティングしてくれないかな? pic.twitter.com/VTtS9IORkS
米山さんいわく、三橋さんは「博士号がない」「論文がない」から経済学者とは言えない、とのことです。
これは、少し考えてみると「ん?」と思ってしまいます。
東大を出て、医師で弁護士で政治家でもある米山さんが、このような「間違い」を言うのは、少し意外に感じました。
「論文がない」という点はともかくとして、「博士号」は学者の絶対条件とはいえません。
なぜなら、博士課程の博士論文は、査読(内容チェック)付きのどこかの学会で、論文をすでに発表した者でないと認められないことが多いからです。
つまり、時系列で言うと、「博士号」を申請する前に、「論文デビュー」をしていなければならないことになります。
別の言い方をすると、博士号がないままで、学会で研究論文を発表している人はいますし、大学教授になっている人もいます。
少なくとも経済学の場合、博士課程を修了せず「単位取得退学」(つまり博士の学位はとっていない)で教授になり、論文とか書いている人、いくらでもいますよ。
インチキ健康食品の監修をする「医学博士」なんて、お金で買った「なんちゃって博士」である場合も少なくないので、「博士号」の有無で、真の学者かどうかを判断する方がむしろ危険です。
私見では、「〇〇学者」の定義は、「当該分野の学会や雑誌で査読付き論文を発表した人」ということでいいのではないかと思います。
そうした活動の延長にある「博士号」なら、意味があるでしょう。
三橋さんは啓蒙書の上梓歴もあり、経済ライター・アナリストではあると思いますが、私も彼の査読論文は存じ上げないので、学者といえるのかどうかは留保をつけさせていただきます。
結局その定義は……
結局、「評論家」にしろ「学者」にしろ、客観的な基準があるわけではありませんが、だからこそ世間に認めてもらうには、その専門性を発揮して社会に情報を発信する上で、論理に基づいた主張(客観的な根拠やデータ)を行うことに尽きると思います。
そして、それを判断するのは私たちです。
「評論家・学者」の方々も、「自称」などと揶揄される不明は省みるべきですが、私たちも、感情的に「自称」とつけて揶揄するのではなく、具体的な言説に対する評価を行うべきででしょう。
みなさんには、「この人なら認められる」という、評論家や学者はいらっしゃいますか。

評論家入門: 清貧でもいいから物書きになりたい人に (平凡社新書 247) - 小谷野 敦
この記事へのコメント
この人なら認められるというか、好きなのは中野信子(脳科学)さんです。
nice!です。
自虐的用語のイメージがあり、テロップで表示された人物は、ほぼ
その類であって、そのたびに、その人物はそうだろうと、私は認識。
学者については、区分けしても効力の少ない、アマチュア天文学の
領域に、昔35年以上熱心に関係したので、他人を区分した事が私
には少なく、用語自体に関心が薄く、為に判ら無いが御答えです。
学者も評論家も勉強した人たちですよね。
私なんか勉強不足で恥ずかしいもんです 😂
なんちゃって評論家や
なんちゃって学者が多いからなのかなぁ
評論家や学者で信じている人いません。
ウーーン どうも最近 そういう人が、いないようなぁ
評論家さんとか、頭が良い人は、他の人の話を聞かない印象で推しは無し!
昨日はコメント入ずでした。😢
コメントは失礼させていただきます
何か大ごとが起こると○○評論家が報道に出てきます。
コロナ騒動には医事評論家、航空事故には航空評論家、
大きな交通事故が起きると交通評論家等々。
それぞれ専門学校の卒業生だと思っていました。
信用できないのは競馬評論家、
信用して何回か買ったが見事に外れました。