【書評】池田清彦著『多様性バカ』(扶桑社)
生物学者・池田清彦さんの『多様性バカ 矛盾と偽善が蔓延する日本への警告』(扶桑社)は、「多様性を尊重しよう」という今の風潮に一石を投じる本です。私たちは毎日のように「多様性」という言葉を耳にしますが、池田さんはその実態を「多様性バカ」と呼び、厳しく批判しています。
示唆に富んだ話がたくさん書かれていますが、この記事では、「SDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)」に関わる2つの「多様性」と称する「区別」についてご紹介します。
生物学者が語る「分類」の危うさ
「これは差別じゃない。区別だ」
という詭弁、ネットでよく使われます。
池田さんは生物学者として、人間社会が行う「区別」の危険性を、生物の視点から解き明かします。
私たちは、人種、性別、障害の有無などで人を区別(カテゴライズ)したがりますが、池田さんは、その境界線は学問的にはあいまいで、人間が勝手に作ったものに過ぎないと言います。
つまり、人間がカテゴリーを勝手に作り、分かつ必要のないものを分けておきながら、「みんな違ってみんないい」などと、綺麗事でまとめている「マッチポンプ」が多様性というわけです。
たとえば、障害者と健常者も、男と女も、生物学的には「人間が勝手に作ったカテゴリー分け」だといいます。
障害者と健常者の分離教育
特別支援学級(普通学校のなかの障害者クラス)、特別支援学校はご存知ですよね。
普通学級に入れない障害者の課程です。
では、そういう区別、すなわち「障害のある子とない子の分離教育」について、「そういうことはやめなさい」と、2022年に、国連障害者の権利委員会から勧告されているのはご存知ですか。
我が国は、このことで「トンデモない差別国家だ」と、世界から白眼視されているんです。
一口に障害者といっても、軽度から重度までありますし、本人や親の判断として、普通学校でヤッていくのはむずかしい、という場合もあります。自主的に支援学校を選ぶならいいのです。
しかし、現在のシステムは、本人や親の意向ではなく、教育委員会&就学支援委員会が「お前は支援学校にいけ」と勝手に決めてしまうのです。
こんにち、少子化は明明白白なのに、支援学校と支援学級の生徒が激増している現状は、障害者を排除する差別国家の象徴的現象と言わざるを得ません。
「クラスに障害者がいると、健常者がそこに合わせなければならないので迷惑だ」
という人もいますが、それが優生学の始まりです。
その意見、学問的にはツッコミどころ満載ですが、手短に書くと、教育心理学や社会心理学では、「勉強ができる子が、できない子に教えることこそが、最も学習定着率が高い」「均質な集団でしか生きられない人間は、社会に出た時に弱くなる」という報告があります。そして、「あなたもいつか、その『迷惑な存在』になる可能性がある。それでも同じことが言えるかな?」ということです。
優生学はね、無学に厳しいですよ。その論理で言ったら、次は学歴や学力で切り捨てます。
今は全体の半分が大学に行く時代ですから、それに達しない、要するに学力的に大学に行けない生徒も「迷惑」の対象となるでしょう。学力や学歴で、人を「不要・必要」と選別することを、「合理的な良い社会だ」と思いますか。
トランスジェンダー(性別不合)
男女はどうでしょうか。
本書によれば、細胞分裂や遺伝子の発現システムにおいて、以下のような「例外」が生物学的に起こり得ます。
染色体はXXでも体は男として生まれたり、染色体はXYでも体は女として発育したり、遺伝子があっても、何らかの加減でスイッチが入らなければ、体は女性化するといいます。
ですから、身体的性と、性自認(心の性)が異なるトランスジェンダーは、一定の確率で生まれるそうです。
にもかかわらず、ネトウヨの妄想を真に受けて、公衆浴場やトイレの「心配」をするふりをして、その人たちを忌み嫌っている人を見かけますが、もう、そういう連中は差別根性の塊だと私は思いますね。
公衆浴場に関しては、国(厚生労働省)のルールで、『身体的な特徴』で判断すると決まっています。
女湯には、いかなる「男性」も入ることは許されていません。
トイレはそもそも個室です。それでも侵入して盗撮や加害をするのは、トランスジェンダー問題ではなくたんなる「性犯罪」です。女性用トイレで女性が盗撮しても捕まりますからね。
飛行機のトイレなどは男女共用で無問題でしょう。
多くのトランスジェンダー女性(出生時男性・自認女性)は、トラブルを恐れて、外出中はトイレを我慢したり、多目的トイレを探したりしています。彼女たちは、「女性を襲うため」ではなく、単に「排泄のために」トイレを使いたいだけなのです。
私がトランスジェンダーの立場だったら、耐えられないですね。そういう人の身になって考えることが大切だと思います。
能動的権利と受動的権利
結局、「多様化」というのは、「差別じゃないよ、区別だ」などという詭弁を弄して、その区別が該当者の権利を奪う差別に繋がっているのです。
では、この「多様性バカ」の状態から抜け出すにはどうしたらいいのでしょうか?
カテゴリーをたくさん設けることが多様性ではない、と池田さんは言います。
障害者であろうが、トランスジェンダーであろうが、そういうカテゴライズに熱中するのではなく、いかなる人も「したいようにできる」、つまり個々の自由や権利が守られていればそれでいいといいます。
それには、私たちが、能動的権利と受動的権利をきちんと認識することを挙げています。
能動的権利というのは、個々の自由や価値観が徹底的に守られることです。
同性婚しようが、障害者がどの課程の学校に行こうが、それはその人の自由であり権利であるから、保証されなければならない。
それがもし、他者に迷惑をかけるなら、法律に反する範囲でのみ責任を取らせる。
たとえば、ひとさまの不倫に、第三者が「正義」ヅラしていちいちネットで大騒ぎしない。
一方、原則として、受動的権利はない。
たとえば、「やさしくして」とか、「この気持ちをわかってくれ」とか、「自分は(みんなは)こう思ってるんだから、お前もそう思わないのはおかしい(←同調圧力)」などと要求する権利はない。
それは、相手がそうしてくれることを期待するしかない。
自分の勝手な願望で、ひとさまを巻き込まない。ひとさまにはひとさまの事情も考えもある。
ただし、社会的弱者(高齢者、障害者など)については、ハンデについて他者から理解と支援をしてもらうという受動的権利は近代国家として必要である。
ということです。
要するに、自分自身の尊厳を守りながら、同じように他者の尊厳も尊重する、ということですね。
それができれば、多様化などというカテゴライズをして「みんな違ってみんないい」なんてきれいごとを言う必要はなくなるという話です。
自分の尊厳は言われなくても守るでしょうが、問題は、他者のそれを守れるかどうか、ということです。
いつも、自分と異なる立場にある、他者の身になって考えていますか。

多様性バカ 矛盾と偽善が蔓延する日本への警告 (扶桑社BOOKS新書) - 池田 清彦
この記事へのコメント
若い頃から健常者しか見ない生活をしてると
ハンデを持つ人に対し、戸惑いからの嫌悪感を覚えるのかも
義父が特別支援学校の校長をしていましたが、生徒の皆さん軽度から重度まで様々でしたが、どの方もとても純粋で思慮深かったです。
障害者を排除するのではなく、その方々が行きたい所で学ぶ世の中であれば良いのに…
性別問わず使える個室トイレの増設
多目的トイレを「特別扱い」ではなく標準化
洗面台も含めた完全個室型の導入
つまり、誰かを排除するのではなく、選択肢を増やす方向性を示す。
これが一番摩擦が少ない方法かもしれません。
nice!です。
そこら辺はジェンダーだなんだでは無く全てに当てはまる事だと思う。
行かなくなった為、接触が減ったからです。問題の根底に、一極
集中した国の、人の暮らしの場所の、人間過密による窮屈さも、
有るんでしょうかね。
引き続きよろしくお願いいたします。
親の理解も大切ですが 教員の方が言ってました
普通学級に入れたい親心 しかし 通常の子達のレベルで勉強を進めてしまい
ついてこれてなくても 進めなくてはいけない 教員のジレンマ
それなら 支援学級で 個々の授業で 一から丁寧に指導された方が
伸びるし 自分のやりたい目標が 決めやすい と言う事を聞いたことがあります 支援だからと言って 劣るわけではなく その子に合った才能が伸ばせることの方が 支援に行かせる意味があると感じました 色々ですね
皆が気を遣わず暮らし良い世の中になってほしいですね。
近年のコミュニケーション不足でしょうかね。
日本は昔から様々な差別が存在していますね。
入らないし、トイレもオールジェンダートイレを使います。
そこだけみて、過度に差別や区別は無用と思います。
母を見ていると自分が将来同様に車椅子生活になり
全盲になるかも知れない。
歳を取らなくても事故で身体が不自由になるかも知れない。
つまり誰でも身体障害者になりうるという事なのです。
誰でも快適に暮らせる社会になれば良いと思うのですが・・・
第3者が他人の事をとやかく言い過ぎだなと思う事も多いです。
暮らしてきたとおぼえます。
物的、制度的、精神的に垣根はなくならないでしょうか??
分類、区別しなければ、多様性が必要なんて、言わないですね。
今日は保土ケ谷区のこども植物園に行って来ましたが、
気温が高くかなり汗ばんでしまいました😀
小学校の運動会で低学年の徒競走がありました。
一番で走っていた子はゴール寸前で立ち止まって後ろを振り向き
しんがりから走ってくる子を待ています。
その子が走ってくると手を繋いでゴールしていました。