差別語と社会的影響、それは本人に聞こえなければいいのか
現代は、昭和時代と比べて、使うことを禁じる「ヘイト発言」があるから息苦しい、昭和のほうがおおらかだった、などという意見があります。しかし、ヘイト発言を使うことを「言論の自由」と開き直る人は、「人権」や「社会の分断」というものを考えていただきたいと思います。
今日、Facebookで、映画やドラマの中の「キチガイ」というセリフが入っているシーンを集めた投稿が流れてきました。
もちろん、そのすべては昭和時代のものばかりですが、コメントの中には、「え、これって釣りだよな」と、目を疑うものがありました。
ここでいう「釣り」とは、極端な意見をわざと書き込み、それを見た他のユーザーを騙したり、怒らせたりして反応(レス)を楽しむ行為を指すネットスラングです。
どういうものか、引用します。
「現代なら放送事故では済まされない 大変な事態になります 昭和時代 以前の デリカシーの欠如していた頃の話 そもそも【キチガイ】と言われて気にする人は【キチガイ】ではないだろうし 【メクラ】と書かれても目の不自由な人には見えず 【ツンボ】と言われても耳の不自由な人には聞こえない 一体だれが気にするんだろうね」
つまり、当人に届かなければ、当人が気にしなければ、何を言ってもいいではないか、という意見です。
それに対して、「釣り」どころか、コメントの中で、もっとも「いいね」がたくさんついていました。
私は、その人たちの倫理観や思考力を疑いました。
「誰が気にするのか?」という問い自体がズレている
そのコメントはロジックとしてかなり雑ですし、現実ともズレています。
まず一番大きい問題は、「本人には見えない/聞こえないから気にしないはず」という前提です。
差別語が問題になるのは、当事者“だけ”が直接聞くかどうかではなく、その言葉が社会全体にどういう価値観を広めるか、という点だからです。
たとえば、「メクラ」「ツンボ」のような言葉は、単なる描写ではなく、「劣った存在」「からかっていい対象」といったニュアンスを歴史的に帯びてきました。
だから、それを公共の場で使うと、その空気が再生産されます。
「気にする人はキチガイではない」というのは、二重に間違っています。
「キチガイはどうせ知恵がないからわかんねえだろ。わかんねえならいいじゃん」という考えらしいですが、「キチガイ」とは、「知能程度(知的障害)」ではなく、「精神障害」や「発狂した状態」をさします。
「精神」の障害者手帳を持っている人の多くは、知的な問題はなく、ごく普通に仕事や学業にいそしんでいます。
そもそも、「誰が気にするのか?」という問い自体がズレています。
本人だけでなく、その家族が聞いたらどうなんだろうね。
友人や同僚だって、そんな事聞いて愉快なわけ無いでしょう。
繰り返しますが、差別語は、特定の個人に直接届かなくても、社会の中で偏見や排除を強化する作用があります。
だから、放送やメディアでは慎重に扱われるようになったわけです。
大衆は、既存のメディアをオールドメディアとかいってバカにしてるけどさ、その点で、ネットの落書きとは根本的に倫理観が違うんですよ。
時代背景的事実はむしろ忘れてはならない
では、それらの言葉は、この世から完全に消し去らなければならないか、というと、そうは思いません。
といっても、今も積極的に使いましょう、ということではありません。
冒頭の動画のように、昭和時代、そうした言葉を使ったシーンを、「今はヘイトだから」といって、無条件にカットする必要があるのか、という話です。
社会は、多少の行きつ戻りつを繰り返しながらも、科学も法律も道徳も倫理も概ね進歩しています。
では、現代より「劣る」過去は、現代を基準に判断し、すべて消しゴムで消すように否定すべきものでしょうか。
それは違うでしょう。
以前もご紹介した、野村克也さんの名言がわかりやすいです。
「もし、あなたが現代野球でプレーしていたら、どのくらいの成績を残せると思いますか?」という質問についての回答です。
「よく聞かれるけど、いつもこう答えてるんだよね。「レギュラーにもなれません。今の野球はレベルが高すぎます」って。
「謙遜しないで」って言う人もいるけど、むしろ自慢してるんだよ。新しい技術や戦略を導入して、プロ野球のレベルアップに貢献してきたことが俺の誇りだから。」
つまり、過去は現代の土台になっているのです。過去があってこその現代なのです。
いくら現代が進歩しても、だからといって過去を「なかったこと」にする必要はないし、それはむしろ社会の発展をきちんととらえることができません。
現実的な整理としては、
昔の作品にそういう表現があるのは歴史的事実
しかし現在の公共空間で無批判に使うのは適切ではない
という二段構えで考えればよいのではないかと思います。
みなさんは、ヘイト発言と社会的影響について、いかが思われますか。

改訂新版 最新 差別語・不快語 - 小林健治
この記事へのコメント
スマホで失礼しました🐾
今考えると信じられない感じですが、言われた本人が知らなくても、その人を知っている人は、気分が悪いし、完全な差別語ですので、差別用語は抹殺ですね。
最近は会話が怖いです・・・
”最近、綺麗になりましたね”
これもアウト
じゃ、以前はどうだったかなという風です (´;ω;`)ウッ…
されているのに知らずに使う人がいる時代を経て、社会的に罰せられる
時代へと全体的には進歩していますが、「それの何が悪い」と開き直る
輩がいつの時代でも出てきますね。そういう輩が親や教師、上司など人
を教える立場になると発言が拡大再生産されて、時代が逆戻りする恐怖
を感じます。過去のことは消してしまうのではなく、当然の権利を勝ち
とっていくまでの苦い過程として記録しておくべきだと思います。
家の母も耳が聞こえず、子供の頃からバカにされて育ったようです。そうなのに、その自分が体の不自由な人を見るとバカにするいい方を平気でするのです。とても違和感を感じながら、育ちました。
昭和の表現を歴史として残すことと、現代の公共空間で無批判に再生産することは、まったく別の問題ですね。過去を否定するのではなく、そこから学び、今の私たちがどんな世界をつくるのかを問う姿勢こそ大切だと感じました。
>2026年04月26日 15:50
>最近は会話が怖いです・・・
本文を普通に読めば分かる通り、“何も言えなくなる社会”の話は書いておりません。
この記事は“褒め言葉がアウトかどうか”の話ではなく、差別語が社会に与える影響の話です。論点が全く違います。
まじめに記事を読むのが辛かったら、無理にコメントはなさらなくて結構です。
酒が入ると、こういう言葉をよく耳にしますが
平成後期生まれには「?」のようです
昭和生まれが居なくなるとこういう言葉は死語になるんでしょうね
今だったら、大問題でしょうがあの頃は違和感が無かったというか気にも留めなかったのかな。
「お前の女房、ガンで死んでざまあみろ」とか、いわれのない侮蔑を言われたら、悔しいし悲しいもん。
それと同じで、目が不自由な人が「めくら」とか蔑まれても、本人には何の責任もないし、その人を生んだ親だって、さらには祖父母だって悲しいと思いますよ。
それに「いいね」がたくさん付いているというのにゾッとします。
私が子供の頃には、差別語を日常的に耳にしました。
否定的なニュアンスを持つ言葉を社会的な影響に配慮してメディアが慎重に扱うようになったのは良いことだと思います。
さかのぼって過去の映画などまで修正して無かったことにするのは違う気がします。
誰かの弁明みたいになりますが、背景や前後の文脈も合わせて考えないと
nice!です。
障害者を障碍者と記する事も、害のある人と捉える事が出来る事を回避する為に字を変えています。
全日本空輸が機体に全日空と記するのを辞めたのが中国語で常にからっぽと言う意味合いがあるので表記を辞めた経緯が有りますが、それに近いのかな?
差別語に対する表現の仕方が多様になった事で今利用されている言葉へと変化したのだと思います。
ひどくなって来たので、さいきん現れなくなった単語で、自分が物事
を考える事が、少なくなって来たからです。そもそも「昭和の死語」
というのが、ものの本によれば、たくさん在るようですしね。不快だ
と使われ無くなるのは、当然のなりゆきか。
そろそろ本気で取り組まなくてはいけないですね。
茨城県は 語尾が強い訛りなので 余計です
過去があってこその現代なのです。
全くその通りですね
niceです💕
ご不快な思いをさせてしまいました。
記事を読んでNice!とか拝読ではなんか寂しいので
一言添えています。
たしかに、コメントに苦慮していることもありますが
お言葉に甘えてスルーします。
いっぷくさんのコメントはとても励みになっていますので
これからもよろしくお願いします。
人が不快に思わない様に気を付けて話してはいますが??
>2026年04月27日 07:56
>人前で しゃべれません・・
本記事は方言でも日常会話でもなく、差別語の社会的影響について書いています。
こういう人たちがいても対応する術はないみたいですね。
差別語の定義も難しい場合があります。
デフリンピックなど、デフはいいのかな?
人種で黒をタブーみたいに言われがちですが、黒猫の黒だって素敵な黒。