1歳児の顔をケーキに何度も押し付ける動画の背景
1歳の誕生日を迎えた子の顔を、ケーキに何度も押し付け、親たちがゲラゲラ笑っている動画が当然炎上して問題になっています。もちろん、シェアする価値はありませんが、なぜこんな親が出てくるのかを今回は述べてみたいので、一応ポストは貼り付けておきます。
Xを見ていたら流れてきたポスト。
Xを利用して以来、3本の指に入るぐらいの不快なポスト(動画)を見てしまいました。
当然コメント欄は炎上しています。
ただ、ネットというのは誰かを叩くのは立派だけど、では翻って自分はどうなのか、他者を通じて自分を顧みるという点でどうなのかな、という思いもあるので、その点を以下に書きます。
親の支配を容認・擁護する日本の文化的土壌
母親はバズらせることしか考えてないんだろうけど、
— 目頭 (@Awakend_Citizen) June 4, 2026
この子にとっては幸せなはずの誕生日とケーキがトラウマになるんだろうな
子供が泣いてるのに、その感情を母親が全く受け取ってないことが何よりも恐ろしい pic.twitter.com/vlNpn6R5Qz
まず、大前提として、抵抗できない幼児を一方的に虐待するのは論外です。
さすがに、ここに異論はないですよね。
次に、子どもの日常をSNSに投稿する行為は、「シェアレンティング(Share+Parenting)」と呼ばれ、世界的にも問題視されています。
子どもの容姿や行動を、コンテンツとして消費することの倫理的問題、子どものプライバシーや将来のデジタルフットプリントへの影響が指摘されているのです。
ただ、私はそこは、事と次第によると思うので、「親は子どもを自分のブログに出すな」のような紋切り型の法制化には懐疑的です。
たとえば、私は過去に、子どもたちが火災で遷延性意識障害になったときに、その様子を何度か写真入りで記事にしました。
それは、脳障害はネットでもきわめて情報が少なく、同じような境遇にある方々からの要請もあり、私自身も他の方のブログで情報を得て、精神的にも救われた経験があることから、社会的公益性はあると判断し、もちろん子どもの名前や顔などは隠して、就学までの様子や、リハビリについて公開しました。
ですから私は、このブログを続ける限り、顔出しもしないし名前も出しません。
私を通して子供のことがわかってしまうからです。
私自身は、実名で本も出してるから、今更何がバレても何にも怖くないんですけどね~。
その一方で、子供が有名な大学に入ったと言って、鼻高々で、学校名がまるわかりの創設者の銅像の前で、お子さん本人の顔も隠さず撮った写真をブログにアップする人もいますけどね。
そこに社会的公益性は? これはたんなる親バカですよね。子どもを利用した自慢。
でも、親の有頂天の代償は、後々、お子さん本人が引き受けることになるかもしれませんよ。
子を一人の人格として見ることができないのか
【通報案件】
— DEATHDOL NOTE (@DEATHDOL_NOTE) June 5, 2026
TikToker
母親
備考
・1歳児の顔にケーキを強引に押し込む
・1歳児にビールを飲ませる
・1歳児を風呂に沈める pic.twitter.com/qUUGkrNBiu
私は、このケーキ押し付け動画と、せんだっての阿部慎之助前監督の事件を、まったく別の問題だとは思っていません。
もちろん、一方は幼児への屈辱行為であり、もう一方は成人した娘への暴力です。表面的には違います。
しかし、その根底には共通するものがあります。
それは、
「親には子どもを好きなように扱う権利がある」
という無意識の思い込みです。
ケーキに顔を押し付けられて泣いている子どもを見て、周囲の大人たちは笑っていました。
なぜ笑えるのでしょうか。
お子さんを一人の人格として見ていれば、恐怖や屈辱を感じていることに気づくはずです。
ところが、「自分の子どもだから」「家族だから」という感覚が先に立つと、子どもの感情よりも、自分たちの楽しさやSNS映えの方が優先されてしまう。
阿部事件も同じです。
もし、阿部慎之助は、相手が原辰徳さんだったら、自分の娘と同じ事はできないでしょ?
たとえ相手が18歳を超えた娘であっても、襟元をつかみ投げ飛ばすという行為の背景には、
「親だから許される」
という感覚がなかったでしょうか。
日本では長い間、「親のしつけ」という言葉によって、さまざまな暴力や支配が正当化されてきました。
もちろん、近年は法改正も進み、体罰を認めない考え方が広がっています。
しかし、私がここで問題にしたいのは、体罰そのものの議論ではありません。
体罰の根拠です。
「親は上、子どもは下」
「親は子どもを自分の裁量で支配できる」
という思い上がった価値観が、いまだに社会のあちこちに残っていることです。
だから暴力だけでなく、社会的公益性もない子どものプライバシーを勝手にSNSに公開することも起きる。
子どもの進学先や、学校名を嬉々として公表することも起きる。
子どもの失敗談や、恥ずかしい姿をコンテンツ化することも起きる。
形は違っても根っこは同じじゃないですか。
子どもを、一人の独立した人格ではなく、自分の所有物や自己実現の道具として見てしまっているのです。。
仏教は「親が偉い」とは教えません
仏教には「因縁」という考え方があります。
親と子は固定的な上下関係ではなく、縁によって出会った存在です。
子がいるから親になれる。親がいるから子が生まれる。
親だから偉いわけでもなければ、子だから従属するわけでもありません。
互いに影響を与え合いながら生きる、一人の人間同士、と仏教は教えています。
だから私は、
「だめな子だから体罰した」
という言葉が全く理解も共鳴もできません。
子どもは親の背中を見て育ちます。
子どもの問題行動だけを見て親が自らを省みないなら、その関係は改善しません。
親がその程度の親だから、子もそうなったのではないですか?
私だったらそう自戒します。まず親が反省すべきです。
いずれにしても、子どもを支配の対象ではなく、一人の人間として見ること。
その当たり前の感覚を取り戻すことこそが、体罰や虐待、シェアレンティングの問題を考える上で最も重要なことだと思います。
動画のご感想は……愚問ですね。

被害者にも加害者にもならないために SNSから心をまもる本 - 小木曽 健
この記事へのコメント
回転寿司店や牛丼店での悪ふざけの比ではないですよ。窒息したらどうするんですか。
もう児相には届け出はされたのかな。
仏教では、人は誰もが「縁」によって結ばれた存在であり、親子も例外ではありません。
親が上で、子が下という固定的な序列は、本来どこにもありません。
それでも私たちは、家族という最も身近な関係の中でこそ、慢(まん)や取著(しゅじゃく)が生まれやすい。「自分の子だから」「家族だから」という思い込みが、相手の苦しみを見えなくしてしまうのだと思います。
泣いている子を前に笑えるのは、子を“人”として見ていないから。
それは暴力の有無を超えて、すでに関係が歪んでいる証です。
記事の中で書かれていた、
> 子どもを支配の対象ではなく、一人の人間として見ること。
この一文が、まるで鐘の音のように心に響きました。
親子の問題に限らず、私たちが他者と向き合うときの根本の姿勢そのものだと感じます。
ましてやビールを飲ませたり、お風呂に沈めたり、この親は何を考えてるんだろうって強い憤りを覚えます。
自分の子供をいじめの対象にしてるとしか思えません。完全に毒親ですね。
nice!です。
これは…なんとも!
虐待ですよね。
これも、直ちに炎上必然(笑)な、見解につきます。
『親だから許される』といった意識の奥底に、
『家長』
『父性』
といった昔ながらの考え方が無意識に存在しているのかもしれません、悲しいですが。
信じられない
そんな親に育てられた子が、大きくなったら
どうなるか?想像しただけで、ゾッとします!
阿部監督の件は、実態は分からず、良く判らないですね。
世の中、色々ありますね。
現代社会のひずみかも
台風6号の軌跡を這うように次の前線が北上して
来ています、夏祭りなのに雨が降り始めました 😂
まともな人なら猫に対してだって、そんなことしません。
反省しなさいと言いたくなります。
少し前の電車に子供が靴を履いたまま…では、真逆で注意しない。
可愛がるのと甘やかすのは似て非似る物であり、近年ではその匙加減が出来ない親が多いですね。
これと同様に躾と体罰も似て非なる物になりますね。