老いと死の流儀(池田清彦著、扶桑社)
老いと死の流儀(扶桑社)は、生物学者の池田清彦先生が、加齢と死の正体を科学的・社会的な視点から考察した一冊です。池田先生は大学も定年退官し、今は虫取りを趣味とする年金世代です。今年で79歳となり、「老い」についてご自身の考えを述べています。
池田清彦先生は、抗えない老化を否定するのではなく、今の自分に相応しい「適当な」生き方を無理なく楽しむことの重要性を説いています。
また、社会が押し付ける「定年」などの枠組みに縛られず、主観的な幸福を追求する独自の「老いと死の作法」を提案しています。
最終的には、死を生物にとっての自然な終焉として捉え直し、人生の終盤を自分らしく穏やかに過ごすための知恵を授けてくれる内容となっています。
とくに興味深い点についてまとめてみました。
人間は死んだらどうなるのか
老いと死の流儀 3刷 決定です。
— 池田清彦 (@IkedaKiyohiko) November 21, 2025
今後ともよろしくお願いします。
人間は死んだらどうなるのか。
科学的な観点だけで考えると、死は「死んだら終わりになるだけ」という身もふたもない結論に至ります。
ただし、それは「死んだら何もない無である」という意味ではありません。
科学は、死後の世界など、検証不可能な対象に対して「答えを出さない」だけのことであり、前世だろうが幽霊だろうが、根拠のある仮説があれば、きちんと検証するのです。
ですから、以前ご紹介した、前世の研究などは、その一例になります。
『前世を記憶する20人の子供』(叢文社)、科学が調べた「前世」本当の話 https://t.co/pooh3ZzuK0 #前世
— 無明子 (@shirimochigome) June 1, 2026
そもそも、科学的理論も絶対的な真理ではなく、その時時で人間が作った「枠組み」で現象を合理的に説明する営みにすぎない、と池田先生はいいます。
それを哲学的に表現すると、科学とは相対的真理の長い系列にある、なーんていうのですけどね。
たとえば、「今、こうである」という説が、後年ひっくり返ることがあるでしょう。そういうものなのです。
一方、宗教は、死の恐怖から逃れるために人間が発明した「極めて優秀な装置」であるとされています。
宗教は、検証可能性を前提としていないため、確かめようのない死後の世界を自由に扱うことができ、死の恐怖を和らげる役割を持ちます。
池田先生は、もとより死後の世界が本当にあるかないか自体は重要ではないとしています。
宗教であろうがなかろうが、自分にとって都合の良い死後の世界を想像し、「自分の心が落ち着くなら、それが正解」と考えて生きていくことが推奨されています。
ま、死後の世界は死ななきゃわからない。それより生きているときは生きているものとしての営みに専念しようということです。
余談ですが、宗教の中で、「死後」の世界に言及しない唯一の例外は「原始仏教」です。
釈尊(お釈迦様)が、弟子から死後の世界を聞かれたとき、「世界が永遠であるか否かに関わらず、現に人間には、生・老・病・死・憂い・悲しみ・苦しみがある。私は、それら(目の前の苦しみ)を今ここで滅ぼすための方法を教えているのだ。」と答えたといいます。(無記の教え)
つまり、「生きているときは、生きているからこそ解決すべきことに取り組め」と言っているわけで、池田先生と基本的には重なるかもしれませんね。
終活はしない
「生きているときは生きることに励め」という先生の考え方は、終活否定につながります。
世間では、持ち物の整理や、エンディングノートの作成、お墓の準備といった「終活」がブームですが、池田先生はこの風潮に真っ向から異を唱えています。
池田先生は、せっかくの老後の貴重な時間を死ぬ準備のためにせっせと費やすことについて、「死ぬために今を生きるようなもの」であり、理解に苦しむと述べています。
自分が死んだ後の葬式やお墓、遺品の整理などをいくら細かく考えて周囲に指示したところで、実際に死んでしまえばそれを処理するのは周りの人間であり、自分にはどうすることもできません。
誰がどう処分したとしても、死んだ本人はすでにこの世にいないのです。
池田先生は、死後のための準備に貴重な時間を割くよりも、自分がコントロール可能な「生きている時間」に力を注ぐほうがはるかに建設的であると主張します。
つまり、「今を楽しく生きる」ことこそが、真の意味での「終活」であるべきなのです。
ただまあ、墓の建立者なら、墓じまいぐらいはちゃんと決着をつけてほしいと私は強く強く思いますけどね。「立つ鳥跡を濁さず」でね。
人生に意味はない
多くの人が、「人生には何か意味や目的がなければならない」と考えがちですが、池田先生は、高齢期においてこの「人生の意味」という思い込みが、心身に最大の害をもたらす「呪縛」になり得ると指摘します。
それを見つけられないこと、あるいは失うことは、高齢期における重大な「生きづらさ」の引き金になります。
いつもいう、「何者かになりたかったのに、何者にもなれなかった」思いがあると、人生を振り返ってあれこれ後悔したり、他者に嫉妬したりすることになるからつまらないでしょ、ということです。
もちろんこれは、「何者かになる」努力や目標を否定しているわけではありません。
高齢者は、「自分が今もっとも楽しいことは何か」だけを考えて生きるべきだといいます。
「あの時こうしていたら……」「世が世なら……」なんていくら考えても、時計の針は戻せないし、人生の残りの時間を「後悔」と「嫉妬」で埋め尽くすのは忍びない、という話です。
……という感じで、生物学者の本ですが、内容は多くが「生き方」「考え方」の話です。
みなさんは、「死後の世界」に思いを巡らせたり、人生の「生きる意味」を考えたりしたことはありますか。

老いと死の流儀 (扶桑社BOOKS新書) - 池田 清彦
この記事へのコメント
とはいえ、「今を楽しく生きる」という池田先生の提案は、まさに“生死一如”の教えにも通じます。老いも死も避けられないからこそ、限りあるいのちをそのまま受け止め、今日の一日を大切に味わうことが肝要だと感じました。
大人になりあれはひとつのファンタジーなのだと思うようになりました。
考えても仕方ないことかなって…
今は、なるようになるって思ってます。
終活に力を入れるつもりはありませんが、周囲が困らない程度には身の回りをスッキリしておきたいです。
nice!です☆
つわけではないとしても、科学者は研究しているように、私は
考えた事はあります。自然の豊かな場所で、今から数百年前程度
の前の時代で、良く有る例を取り上げると、権力者に土地を取り
上げられた怒りを、大声ではりあげる等すると、簡単に、判り易
く言うと、地縛霊になれると思います。害虫の攻撃を、森の樹木
が避けるように、出来るからです。そのとき現代人は、けして、
その森林の樹木の、枝を選定してはいけません。意識は体液や空
気という流体か実態で、乱流か複雑なので、実際複雑なのだと
考えれば、このような事が存在した時、全て説明可能となります。
「大声を張り上げた事が生前全く無いと、意識は消滅する」とい
う、ケースバイケース論を、つまり私は取っているという事です。
終活 そうですね でも 若い人が片付けに困らぬ様に
身辺だけは 奇麗にしておきたいものですね・・・
多分 お金に余裕が無いと ダメですけどね・・・
いつも、コメントありがとうございます
いいですね この考え!
『今の自分に相応しい適当な生き方』
⇒響くなあ~
終活はしていません。
生きていくことは苦しみの連続で救われません、と車谷長吉さんが書いていました。早く死にたいとおっしゃっていましたが、船で世界旅行の折に撮影された写真には楽しそうな笑顔で映っていました。
10年くらいまえには、終活ノートを作ろうか、と思った事もありましたし、身辺整理、断捨離、という言葉を実践しようと思いましたが、実際に死が近くなってきた今、そういう事は止めにしました。
たくさんある思い出深いモノを、何故今捨てなくてはならないのか?死んだら残った人がすればいいのです。
子供の誰かに言った事があります、「死んだらそうしてちょうだい。その分くらいのお金は残すから」
「残された者が困るから」よく聞く言葉ですが、困るのは借金などの始末です、それだけはしないようにしています
食っちゃ寝食っちゃ寝の生活です( ̄‿ ̄;)フフフフフ・・・・・
僕もそうしよ( ´艸`)ククク・・・