人生を身軽に生きるために捨てたい「5大アイテム」とは?

人生を身軽に生きるためには、友人など捨てるべき「5大アイテム」がある、という話がネットで盛り上がっていました。元記事は、プレジデントオンラインの「友達を捨てられる人ほど人生が充実する、決断できれば、いいことばかり」(2018年2月19日更新)です。

中高年の断捨離の話ですね。
ただ、今回はモノだけでなくヒトも断捨離しろ、ということになっています。
記事によると、漫画家の弘兼憲史氏は、「友達の数で、幸せは決まらない」と断言。
「自分の身辺を見直し、不要なモノを捨てることで、身軽に生きられ」るとし、中高年ビジネスマンが捨てるべき5大アイテムを挙げています。
引用します。
1:本
流通構造が変わり、以前より再入手もしやすくなった。ためらわずに手放そう。
2:写真
データ化する場合は、厳選してから着手を。保存にかかる労力と時間は有限だ。
3:服
「高かったのに」「やせたら着られる」はNG。今の体形と見比べてシビアに吟味を。
4:賞状、成績表
過去の努力は、自分の中に蓄積されている。「証明書」は不要と考えよう。
5:年賀状、名刺
人脈を感じるための自己満足ツールになってはいないか。連絡に使わないなら処分を。
「若い頃は、友人の多さが有利に働く場面がたくさんあります。特に仕事はそうですね。しかし、年を重ねるにつれ、自分のポジションというものが明確になります。もしこれ以上、上にいけないと感じたら、無理して今以上に人脈を広げたり、維持したりする必要はありませんね。それよりも、少人数の信頼できる友人がいるほうが大切です」
「僕は最初に年賀状廃止からやりました。昔の年賀状は心のこもった手書きでしたが、今ではパソコンですべてを印刷したものがほとんどです。さらに正月の過ごし方も変わってきています。昔と違って元日からお店は営業しているし、イベントもいろいろやっています。年賀状をゆっくりこたつで見る人って、減っているのではないでしょうか。となると、年賀状を出しても、読まれているのかどうかさえわかりませんから」(弘兼氏)
⇒友達を"捨てられる人"ほど人生が充実する
中高年というと50代以上でしょうか。
でも、それ以下の世代でも無意味ではない話ですね。
私は、火災で「5大アイテム」を失ってしまったので、何を捨てるか悩む機会もありませんでした(汗)
以前から年賀状には疑問をいだいていましたが、焼失はいい機会になりましたね。
ただ、年賀状は焼失しても、その送り主自身との関係が消えるわけではありません。
その点、私は逆に何もないから開き直れました。
今は、気に食わない奴とは無理に関わらない、とシンプルに決めています。
⇒学校時代の同窓会・クラス会は出席しますか?
↑
ここに書いたように、私は以前は行っていた高校の同級生の集まりも、嫌な奴が参加すると聞いてあっさりやめました。
ネットニュース編集者、中川淳一郎氏の説では、ひとりの人間が日常的に付き合える人は30人~40人。
⇒『ネットのバカ』の中川淳一郎氏、ネットとスマホに警鐘を乱打!
もし、あなたが日常的にそれだけの人に恵まれているとしても、その中から、お互いの葬式で泣けるような大切な人と言ったら更に絞られるでしょう。
でも、本当に大切にすべきはそういう人たちである、と中川淳一郎氏は述べています。
まあ、当たり前といえば当たり前の話です。
今さらそんな当たり前のことが取り沙汰されるのは、やっぱり現代が、人と対面すべきことですらネットですませる人たちと、その一方で、未だに儀礼的な何百枚もの年賀状書きをやめられない人もいるという両極端の傾向があり、その人たちに対して、もっと実質を大切にした生き方をしようと呼びかけているのかもしれません。
人によっては、「せっかくの人脈は、大事にしておけば何かあったときに助けてもらえるかもしれない」とご教示くださることがあるのですが、
私はそうとは限らないと思うのです。
私が火災を経験しても、親類は冷たく、その一方で、長男が幼稚園の年少でたった1年一緒だった保護者が動いてくれたことは以前書きましたが、そのママ友たちとは特別親しかったわけではなく、年賀状のやり取りもほとんどありませんでした。
そんな経験をした私にいわせれば、「知り合い」「友人」さらには「親戚」というだけでは何の意味もないと思います。
ただ、縁があってお付き合いしているときに、お互いの人格や価値観などを尊重し合えるきちんとしたお付き合いができたか、それに尽きるのではないでしょうか。
そうすれば、きっと相手は覚えていてくれるし、また何か縁があればいい関係を築けます。
記事によると、こうした人間関係の整理を進めておけば、定年後、冠婚葬祭にかかる費用を抑えられるといいます。
現役世代には飲み会を厳選し、「二次会には行かない」などルールを決めることを勧めています。
まとめ
捨てるということは、自分の人生のこれまでの積み重ねを手放すようで抵抗があるかもしれません。
が、「証明書」や賞状などなくても、身につけたことは、自分自身の知性や人格に反映されています。
「過去」というのはきわめて文芸的な表現であり、物理的にはもうおわったことで存在しません。
終わってしまったことにこだわってもしかたありません。
私たちが生きているのは「今」ですから、そこでそれらを全面開花すればいいのではないでしょうか。
さて、あなたは過去を上手に整理できますか。

この記事へのコメント
まさに書かれている事そのまんまな感じですね。
最低限で十分かと思います。
後は必要な範囲で広く浅く。
でも、物質だけの断捨離でなく人の断捨離も必要なんですね。
年齢を経てくると、断捨離したつもりはなくとも数が減って来てるかな~と思います。
同窓会・クラス会の類も年を経るごとに間隔があいてきたと実感しています。
年数が経つにつれてそれが少しずつ減っていったら精神的にも楽になるのだろうと思いますが…まだ何ともというところです(汗)
人間関係についてはもうだいぶ前からある程度見極めがつくようになっています。どのような状況においても、自分なりの尺度で「気に入らない」人とは時間を共有しません。それとやや高飛車な心構えに感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、自分なりの尺度で「人間的に実に退屈」な人とも親しくすることはないですね。
「友達」という言葉についてすぐに思い出すのは、それこそわたしの数少ない友達の一人であるフランス人フェノン(仮名)が来日してすぐに語ったことです。彼によれば、「会ってから2~3度目の日本人の中年男性が、素面ではほとんど喋らなかったのに、酒の席で酔っ払うと急に肩を抱いて、友達、友達、とか言い出したんだよ。でもぼくはその男のこと、何も知らないんだよね」という感じです。彼の感覚の中で「友達」というのは、余程お互いに深く知り合ったうえで生じるものなのですね。この感覚が当然だと思うのですが、日本人の場合、いかにも「友達」という言葉が軽いですよね。ひょっとしたら、「友達」と「親友」を使い分けているのかもしれませんが、いずれにしても「単なる知人」レベルの人も「友達」に入れている人が多いのではないでしょうか。
そしてわたしの場合、年賀状は出さないので「来ません」し(笑)、写真も稀にしか撮らないので「増えない」ですし(笑)、成績表などは籐の昔に処分してますし、こうしたアイテムは断捨離を考える必要さえありません。
問題は本でして、流通構造が変わったと言っても、手に入りにくい本は多くありまして、そもそも(また買うかもしれない)と思いながら捨てるというのもちょっとどうかなあと。とは言え、わたしの家の本の量は尋常ではなく、「もういらない」というものを見極めねばと思っております。
子どもの頃からバレエ鑑賞に興味はあったのですが、男性ダンサーの股間は本格的バレエファンになるまでに大きな壁として立ちはだかっておりました。そして腰から下の形状を完璧に再現する白タイツも慣れないうちは不気味でしかありませんでした。現在は、「慣れた」状態なのですが、決して「見て嬉しい」というものではありません(笑)。ただおそらく女性のバレエファンの多くはあの下半身にフィットし過ぎた白タイツも大きな性的ファンタジーの対象なのだと思います。その点がフェティシズムを考える上でもおもしろいですね。かつて知人の女性が男性バレエダンサーの白タイツからバレエシューズを履いた爪先までを眺めながら、「この辺りが好きなんです」と言っていたのが印象的です。わたしなどにはまったく理解できない性的ファンタジーです。
>お竿をやわらかいうちに
そのやり方は魅力的ですが(笑)、おそらく踊るのには大きな困難が待ち構えているかと(笑)。そう言えば、太陽王ルイ14世時代など、フランスを中心として欧州では、女性よりも男性が脚線美を自慢する風潮があったのでありまして、時代や文化が変われば、性的ファンタジーも変わってゆくもののようです。
>もしその人を嫌いになってしまうような匂いがしたら、その人に対する熱が冷めてしまうので
それに似た経験がわたしもあります(笑)。数か月くらいしか付き合わなかった女性ですが、この場では「どこのどんなにおい」などの具体的なお話は差し控えますけれど(笑)、そしてそれですぐに「嫌い」になったわけではないのですが、(う~ん、これはちょっと・・・)という感は強かったです。
>そういうことってありませんでしたか。
あります!もちろんどころでなく、心の中に常に強いファンタジーとしてあります!わたしの場合あまりコインランドリーへ足を運ぶ習慣がなかったものですから、具体的行動へは結びつきませんでしたが、気になる異性の着用物に対するフェティシズムは男女とも不通に持っているはずです。もちろん「洗濯してないアイテム」(笑)にです。
結局そのような性的ファンタジーを持つのは文化的に成熟した社会に生きる人間として当然のことであり、しっかり「線引き」できておれば問題ないのだと思います。つまり、「下着ドロ」とか「女子高生の制服収集」とか「ブルセラ購入」とかの人たちは、「線引き」ができない「あっち側の人たち」ということなのだと思います。RUKO
私も昔は名刺や年賀状の数を誇っていたような感じですが、
少し歳を重ねて、大切な友達などの人間関係をより濃く大事にするように
変わってきたように思います。
過去にとらわれすぎず、今を大切に生きていこうと思います。
年賀状は毎年3~4枚しか来ないから良いけど本と服は処分出来るな、太ったよなぁ俺(^_^;)。
当てはまる項目が多くて耳が痛いですが、言われてる通り持ってても将来的には邪魔な物、ゴミにしかならない物ですからね。
かたづけなければ。
最近、似たようなことが身近にあったのを見たので、そういう生き方が楽だな~と感じていたところです。
ここ数年、中途半端な付き合いの人たちとは連絡を取るのはやめてますし、年賀状のたぐいはほとんど処分しました。
しかし、長らく合っていませんでしたが最近本当に大事な人を亡くしてしまい、その遺品は手放せずにいます。
時が経ったら落ち着いて整理しようかと思ってます。
データ化しようかも悩んでいるままタンスの肥やし状態です。
洋服でさえも昔のがたくさんあるんだけど、幸い田舎の部屋数だけはたくさんある家なので、今後もなかなか難しいような気がします。
保険の仕事をしていると、人間関係はなかなか切ることが出来ませんね(^^;
特に年とったら自由に好きなようにしたいです。
若い頃は 無理をしていたり 無駄な?事を惜しみませんでしたが、最近は 辞めました 無理なお付き合いは断り 心地良い時間を多く過ごすようにしています
一度の人生 ・・・なんて考える歳になりました(^^)
共働きになるとどうしても私生活での友達との遊びとか
無くなっていくし、ご近所さんとの付き合いもそこまで
濃厚にもならないしw
戦後間もないころ、子供だった私ら世代は
なかなか物が捨てられません。
その一方で旦那さんのものは増えるばかりです。
(友達も物も・・)
年賀状はもうやーめたとなってから20年以上書いていません。年末のせわしい中で、その分だけでも気持ちは楽です。それでもまだ律儀に下さる方もいるものですが・・・だからと言って特に嬉しいとかいった気持ちにはなれません。
「知り合い」「友人」「親戚」に、職場の仲間も辞めたらそれまで、1~2度は会うものの続かないものですね。
私自身友人の少なさがコンプレックスであった時もありましたけれど、何十年も続いている気心の知れた友達が数人だけで良いとわかってからは、ふっ切れた思いでいます。確かにこの歳になったら、何かと決められない面倒な人、一緒にいて疲れる人、面倒くさいのはごめんですから。。
私は「せねばならぬ時」と心に決めて
消極的ながら今年に入ってから始めてます。
気持ちがだいぶスッキリして楽になってますので
これで良かったかな~! と思います。
今は猫と過ごす時間の確保が最優先です。
1.3.4.5は大丈夫ですが、2だけが・・どう整理したものか模索中です。
ただ、ある免許状などが残ってます(名前入りで木製)
これらは、棺にでも入れてもらおうと思っています。
人間関係で悩んでいるわたしにはとても興味深いテーマでした
また、父の葬式で思ったものです…
関係ない人が来てお別れの儀式をかき回す。
本当に父を偲んでくれる人だけに来ていただきたかったです。
お金だけかかって、「無駄だな」と思いました
密葬を「こういうのがいい」と言っていた父は、あんな葬式を望んでいたのかな と…
学校の同窓会、クラス会の誘いがない。
狭い家で良かったのか悪かったのか???(笑)
そういうものは、所詮、それぞれの利害関係に基づいて構築されるものであり、いざというときに助けになるなどと云うのは幻想です。
記事の中でも触れておられましたが、私は、自分が死んだときにきっと涙を流して悲しんでくれるだろう人を数えることができればそれで十分だと思います。
そしてそれは、もちろん私も彼らのそのときに立ち会って滂沱の涙を流すであろうことを前提にしてのことです。