ジャイアント馬場に三条市名誉市民議案、猪木と戦わなかった理由

ジャイアント馬場が亡くなって17年。出身地である新潟県三条市では、国定勇人市長が、同市6人目の名誉市民に選定する方針を発表しました。ジャイアント馬場といえば、プロレスの世界でいつも比べられるのがアントニオ猪木ですが、2人はどうして戦わなかったのか、『日本プロレス事件史Vol.3』(ベースボールマガジン社)で改めて確認しました。

名誉市民の提案は、市民の1万人署名活動を受け止め、これから議会にはかるそうです。
「プロレスを世に定着させ、リーダーとして活躍された馬場さんの往時を知らない世代にも、(功績を)知ってもらわなければいけない」という国定勇人市長のコメントは、全盛時の活躍を僅かでも知っている者からすれば、頷けるとともに大変嬉しいことです。
高度経済成長時代の象徴である、明るく突き抜けたジャイアント馬場のプロレス。
その価値は、なかなかその時代を生きた者でないと、理解が難しいかもしれません。
ジャイアント馬場の場合、晩年が長過ぎた(笑)ので、その実力を誤解されがちですけどね。


ハワイでくつろぐババ
原康史『劇録馬場と猪木1』(東京スポーツ)117ページより

ロスアンゼルスの街を、32文ロケット砲の師匠といわれたペドロ・モラレスと闊歩するジャイアント馬場
原康史『劇録馬場と猪木1』(東京スポーツ)117ページより
まとめサイトです。
⇒ジャイアント馬場、署名活動実り三条市名誉市民に
ジャイアント馬場とアントニオ猪木はなぜ戦わなかったのか
今読んでいる『日本プロレス事件史Vol.3』には、「猪木が馬場に送った最後の挑戦状」という流智美氏の読み物があります。
ちょっとマニアックな話ですが、ジャイアント馬場とアントニオや猪木はどうして戦わなかったのかという話です。
1971年暮れに、アントニオ猪木が日本プロレスを除名され、1972年夏には、ジャイアント馬場が日本プロレスを離脱し、それぞれ自分の団体を作りました。
以来、数年間、アントニオ猪木が、さかんにジャイアント馬場に「俺と戦え」と挑発。
しかし、ジャイアント馬場がそれに応じなかったために、ジャイアント馬場が逃げている、という報じ方を一部のプロレスマスコミまでが行いました。
それに対する返答として、ジャイアント馬場は、シュートマッチ(暗黙の了解のない真剣勝負)の強いレスラーを集めたリーグ戦を開催。アントニオ猪木にも参加を呼びかけましたが、今度はアントニオ猪木のほうが応じず、結局対決は実現しませんでした。
ジャイアント馬場は逃げたのか、アントニオ猪木が怖気づいたのか。
答えはどちらでもなく、初めからできるわけがなかった、という真相が書かれています。
理由は、当時のプロレス団体が、テレビ局の意向抜きで勝手な運営をすることはできなかったからです。
ジャイアント馬場の全日本プロレスは、設立時から日本テレビの子会社。
つまり、プロレスラーとしてのジャイアント馬場は、日本テレビの専属のタレントというわけです。
アントニオ猪木の新日本プロレスも、NET(テレビ朝日)が深く関与していました。
親会社が、子会社のトップレスラーを、他局の競合会社のトップレスラーと戦わせるなどということは、そこによほどのメリットがなければあり得ません。
自分のところの「タレント」が、他局の「タレント」に負けたら、そのプロレス団体だけでなく、テレビ局同士の関係にも影響を生じてしまうからです。
当時のNETのスタッフには、NETが1億円出すから試合しようという話に、ジャイアント馬場は当初乗り気だったものの、急にキャンセルを入れてきたが、それは日本テレビがストップをかけたのだろう、と書籍で暴露した人もいます。
ですから、別にジャイアント馬場は逃げたわけではないのですが、「できない真相」を公に打ち明けてしまうと、プロレスのショービジネスとしての真実がバレてしまうので、あえてアントニオ猪木やマスコミに弁明しなかったというわけです。
結論が出ていないから議論としては楽しい
記事では、「日本マット史60年の中で、これほど実現を渇望されたカードはなかったが、これほど実現しなくて正解だったカードもない」と結ばれています。
結果的に、両団体の緊張関係が、その後のブロレス史をつくってきたのに、そこで無理に実現したら、両団体の緊張が崩れてしまい、プロレス界自体が混乱してしまっていたかもしれない、ということでしょう。
今もweb掲示板のスレッドでは、「馬場対猪木」を熱く議論するスレッドがあります。
2人の対決に決着がついていたら、これはなかったでしょう。
ファンからすると、結論がないから(永遠に出ないから)安心して議論ができる、ということもありますね。
それにしても、死後17年もたって、名誉市民に推されたり、ライバル対決について論じられたりするジャイアント馬場という人は、すごい人だったんですね。

日本プロレス事件史 vol.3 年末年始の大波乱 (B・B MOOK 1125 週刊プロレススペシャル)
- 作者:
- 出版社/メーカー: ベースボール・マガジン社
- 発売日: 2014/11/17
- メディア: ムック
この記事へのコメント
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オープン選手権だと思いますが、豪華な外国人レスラー陣でした。これについてはレイスの件も含めて最近自分の中で再評価が進んでいるので(笑)、ぼつぼつ書いていこうかと考えています。それにしても若き日の32文、ど迫力! RUKO
去年決まってたら17回忌に間に合ったのにね。
今はまったく見ないです(^_^;)
初めてTVで見たプロレスは力道山でした。
凄く強い印象が、それに比べて馬場さんは
のんびり、ゆっくり・・大きいだけと感じていました。
両雄の対決は見たかったですね。
プロレス全盛期の人というイメージが強いです。
色々な裏話もあるんですね
私は馬場派だったので、猪木との決戦をキャンセルした話が、「馬場が逃げた」とされて非常に憤慨したことを思い出しました。
この記事でその事情を知り、なるほどと納得するとともに、馬場さんの人間的な大きさのも改めて共感しています。
三条市名誉市民、是非とも実現してほしいものです。
言われてみれば確かに両雄は対戦しませんでしたよね~
馬場さんが越後県民だったは知りませんでした。
馬場さんと猪木さん、結局は戦わなかったんですね。
というか戦えなかったなのか?
いずれにしても裏があると残念なものですね。
プロ野球・巨人のピッチャー馬場さんも見たかったです。
でも実現できるわけがない闘いだったんですよね
絶対的な看板同士の戦いであり、負ければその団体は終焉
完全な企業戦争の構図でありあまりにリスクが高すぎる
両テレビ局からしても数字のとれるコンテンツが潰される危険
完全決着を避けた台本を用意されたのは確実でしょうが、シュートを仕掛けて潰しにくるのではという双方の猜疑心
様々な「大人の事情」が絡んだだけでなく、「やったもん勝ち」なプロレス界だからこそ絶対に実現させられなかったのでは