杉田かおる母親介護を「親孝行」の視点で済ませたいあなたに問う

杉田かおるが先月12月23日に、自分の母親を介護施設に預けた話を書いたばかりですが、あれから3週間。14日に更新した自身のブログで、「1月6日6時30分母が永眠しました」と報告されています。先日とは少し違う視点て、今日もそのことに触れたいと思います。

先日の「介護施設に預けた話」では、杉田かおるは母親で苦労したことを杉田かおる自身も述べていたはずなのに、それでも介護を頑張れたのはどうしてだろう、という内容のことを書きました。
⇒杉田かおる母親介護報道で考える、子はなぜ毒親でも介護するのか
そして、今回の訃報についてのまとめ記事です。
⇒「美しく生き美しく旅立ちました」杉田かおる、母の永眠を報告
まとめ記事のコメントは、いつになく杉田かおるに理解があり、なるほどと思えるものも少なくありませんでした。
きっと、老親介護は誰にでもあり得ることだから、まじめに受け止めたのでしょう。
すべての話題で、そうあって欲しいですけどね。
>53歳で介護かあ…本当に偉いね感服するわ/お疲れ様でした
>ついこの前施設に預けたばかりだったのに早かったな
>自宅介護は限度があるよ/いい時に施設入れたのかもね
>施設に入れると鬼呼ばわりする奴がいるくらいだからな
>これだけ根性入れて介護したってことは/母からの愛がずっと欲しかった人なんだな
>毒親だったのになあ
立場と考え方によっていろいろご意見はあると思いますが、この経過をもって、「2週間で亡くなるのなら、介護施設には預けないで、最期まで自分で介護してあげてほしかった」などという「何もわかっちゃいない」コメントは、出てこないと私は信じたい。
杉田かおるのギリギリの選択と、それを諒とした母親の決意を踏みにじるものだからです。
「自分は別」の「毒親」
さて、この件で、私が思ったことです。
親の「遺産」で、苦労させられた松本明子についてもそうですが、
⇒松本明子の「肩の荷」、地方の実家は「資産」か「負の遺産」か
「親」で苦労させられている「子」の話になると、親の側からの擁護や理解だけを述べる意見をよく見聞きするのですが、私はそれはちょっと残念なことだと思っています。
客観的に「子」が「親」に苦労させられているケースから、それを自分のこととして受け止めることができているかどうか。つまり、自分はそうならないようにしようと真面目に考えているかどうか。
もしかして、そこから逃げていませんか、ということです。
まあ、そういう意見は、親で苦労したことのない人が善意で述べることもありますが、問題なのは、わが子の負担をかえりみたことのない親ですね。
「そうだよな、子どもに迷惑をかけることはいけないよな」ということは、理屈としてはわかるけれど、でも現実に親である自分のこととしては目をつぶりたい。
「親は親、子は子、それぞれの人生がある」という当たり前のことに反する、自分自身の子に対する甘えや押しつけと向き合いたくない。
そこで、「親孝行はいいこと」「親は大事なのだ」「親の話は聞いたほうがためになる」「親の気持ちを考える情は人として大事だ」等々、真っ向から反論できない言い分で逃げてそこは避けて通りたい。
そんな感じです。
でもね、
自分に都合の悪いことは、わかりたくないと逃げていたら、きっと子に対して同じように将来負担をかける、もしくは現在かけていることにならないか、という懸念が私にはあるのです。
親が子を不幸にする悲劇の本質は、そこにあるのではないでしょうか。
介護そのものも大変ですが、それは「順繰り」で誰でも年を取ればそうなります。
私がやるせないのは、「子」に迷惑をかける事を避けたいという課題と本気て向き合えない「毒親」マインドなのです。
その意味で、死期を悟ったのかどうかはわかりませんが、自分から介護施設に行き、「快適である」ことを娘に伝えて心配させずに最期を迎えた杉田かおるの母親は、決して根っからの「毒親」ではなかったし、杉田かおるもそうした母親の本質の優しさをわかっていたからこそ、ギリギリまで頑張れたのだろうと、私はこの件得心できたのです。
お子さんのいらっしゃるあなたは、ご自身をかえりみて「毒親ではない」といい切れますか?

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