『全日本プロレス40年史』輪島大士最後の?ロングインタビュー

『全日本プロレス40年史』(ベースボール・マガジン社)を読みました。全日本プロレスの40年間を、試合や記者会見などの出来事の写真とその解説記事、関係者のインタビューなどで振り返っています。中でも注目は、“早熟の大器晩成”輪島大士氏のインタビュー。2013年に下咽頭がんで声を失った輪島大士氏にとって、その前年に行われた同誌インタビューは、最後のロングインタビューかもしれません。

またしても「プオタ」まるだしなのですが、

全日本プロレスというのは、1973年にジャイアント馬場が創設したプロレス団体です。
同誌は、2012年に、その40年を振り返るというテーマで作られた書籍ですが、「関係者のインタビュー」に、久々にめずらしいOBが登場していました。
第54代横綱の輪島大士です。

30代ぐらいの人ですと、バラエティ番組に出演していた「ワジー」として記憶にあるかもしれませんが、力士としては元学生横綱であり、大相撲でも横綱に上り詰めた大変な人です。
なにしろ角界入りは幕下付け出しでしたが、1年で幕内に上がり、大関昇進の4場所後には横綱になっていましたから、アスリートとしては早熟な超逸材だったわけです。
早熟の大器晩成
しかし、新弟子の苦労もせず、学生時代から相撲だけやってチヤホヤされていたことで、人間としての修行をする時間と機会がなかったかもしれません。
十両の頃から外車を乗り回し、遊びも派手だったようです。
借金のカタに年寄株を担保にしたことで、10回も優勝した元横綱でありながら、角界を追放されてしまったのです。
そのことが原因か、輪島の親方の娘である五月夫人は自殺未遂をし、結局輪島大士とは離婚。
ここでいったん輪島大士はすべてを失いました。
そこで、第二の人生として選んだのがプロレスです。
何と38歳で全日本プロレスに入団した(1986年)のです。
その世界でトップに立ったアスリートの全日本プロレス入団には、アントン・ヘーシンクという、元柔道金メダリストがいました。
しかし、それは日本テレビが視聴率狙いでブッキングしたもの。
レスラーとしてのレッスンも受けず、柔道ジャケットマッチという変則的な試合以外、ほとんど使い物にならず、定着できませんでした。
⇒アントン・ヘーシンクはなぜプロレスで成功しなかったか
一方、輪島大士の場合は、同誌によると輪島大士が自分からプロレス入りを望み、ジャイアント馬場がそれを承諾したといいます。
ジャイアント馬場も、元横綱に恥をかかせるわけには行きませんから、ハワイやアメリカ本土、プエルトリコなどで、元一流レスラーのコーチングや、試合をこなすレスラーとしての英才教育を受けさせました。
38歳で、元横綱のプライドがあるのに、打ったり蹴ったりされるプロレスラーなんかつとまらないだろう、という世間の“アンチ”な目も輪島人気につながり、全日本プロレス中継の視聴率にも当初は貢献したようです。
しかし、やはり、足の裏以外を地につけてはならない相撲と、受け身やグランドテクニックが重要なプロレスでは、戦い方が根本的に異なり、そのギャップによるダメージやストレスが心身に蓄積。
結局2年5ヶ月で引退してしまいました。
ただ、そこで「裸一貫」の出直しをしたことで、人間修行はできたようです。
インタビューでは、ジャイアント馬場、ハル薗田、パット・オコーナー、ネルソン・ロイヤルなど、当時の師匠に対しては感謝の念を込めながらコメントしています。
第三の人生を過ごし50歳過ぎてパパになる
プロレスをやめたのは、全く何の予告もなく突然でした。
そしてその後、一切プロレスOBとしては発言していないので、てっきりプロレス時代を自らの「黒歴史」として、関係者との接触を拒絶しているのかと思いました。
たとえば、師匠のジャイアント馬場が亡くなった時も、輪島のコメントはなく、話題にもなりませんでした。
しかし、後になって、その時輪島は、第三の人生であるアメフトの仕事でたまたま渡米中であり、帰国してから、馬場宅にお線香を上げに行ったことがわかりました。
今回のインタビューでは、プロレス時代を、
「無我夢中で必死にやった2年間は、僕の人生の大切な1ページですね」
と語っています。38歳の新弟子時代は、決して「黒歴史」ではなかったということです。
プロレス界は、元関脇ながら廃業した力道山といい、読売ジャイアンツを整理されたジャイアント馬場といい、他のスポーツの世界で不遇だったり挫折したりした人たちが入門することはめずらしくありません。
その意味で、苦労した人たち、他人の心の痛みのわかる人たちの集まりといえるかもしれません。
輪島大士が、たとえ2年間といえ、そうした世界で頑張ったことは、第三の人生につながったのではないでしょうか。
プロレス廃業後は、タレントやアメフト・Xリーグのクラブチーム「ROCBULL」の総監督などをつとめ、第三の人生も軌道に乗ったようです。
プロレス時代はろくに稽古していないという評価も一部にはありましたが、今写真を見ると、相撲時代の肉も取れ、アスリートとしての体であることがわかります。
元力士の38歳が、トレーニングもしなければ、このような体にはならないでしょう。

輪島は、某親方の実の父親だなどと言われていますが、少なくとも戸籍上は、50歳を過ぎてから初めて父親になっています。
父親としても「大器晩成」なわけです。
そして、同誌のインタビューの翌年、下咽頭がんになり、声を失いましたが、現夫人によると、医師からはあと20年は元気だと言われたとか。
この「早熟で大器晩成」な人生を送る輪島大士氏には、ぜひ今後もご活躍いただきたいと思います。

全日本プロレス40年史 (B・B MOOK 848 スポーツシリーズ NO. 718)
- 作者:
- 出版社/メーカー: ベースボール・マガジン社
- 発売日: 2012/10/02
- メディア: ムック